鏤刻の祝詞を息吹に纏う
つなぐ糸を紡ぎ交えば
果実は木から落ち、枝に種のみが残る

憧憬の声明より出でて
終わりをもたらす神業
僕らはそれを奇蹟と呼ぶ術を知らず


識らず希う





第一章 ペルヴァンシ

「…ラミィ…そこにいるの?いるんでしょ??」
 心地よい草いきれの中、少年は芝生を踏みしめた。やわらかな木洩れ日を受けて淡く光る白い肌が、緑の間に見え隠れしている。鈴の鳴るような幼い声が、またその名前を繰り返す。
「ラミィ…だめだよこんなところまで来ちゃ。見つかったらまたケストナーさんに怒られちゃうよ…さぁ、うちに帰ろう。」
 ラミィと呼ばれた少女がゆっくりとこちらを見上げた。金色の波のように揺れる長い髪が、彼女の身体にふわふわとまとわりつく。その髪よりもやわらかなまなざしで、彼女は少年に応えた。差し出された手を取り、服についた草をはたきながら立ち上がる。細かな日の光を服の上で転がすように、二人はこの心地よい小さな森から、家に向かう道を歩き出した。
「ルーンは、すぐに私のことみつけちゃうねぇ…かくれんぼしてもじょうずね、きっと」
「だって…ラミィはいつもあの森の芝生のあるところに隠れるじゃないか。いくつもないもの、そんなところ…」
「それでもじょうずよ、ぜったい。どこにいても私をみつけちゃうんだわ」
 ラミィはうれしそうに表情を緩めて微笑む。ルーンもそれにつられて、静かに笑んだ。

 これが僕。これがラミィ。
 僕らはよく似ていた。年も、背丈も、金色の髪も。二人が微笑むととけあってしまいそうなくらい。
このとき、僕らは十一になったばかりだった。二人とも小柄で同じ年頃の子達より背が低かったけれど、ラミィは同世代の子供を僕以外に見たことがなかったし、僕もラミィといっしょであることになんら不満は感じなかった。白い肌、グレーの瞳、不自然なほどに細い髪。色素の薄い金色が、日の光に透けるのもいっしょだった。小動物の赤ん坊のように小さくつたない手も、花弁のような口元もそっくりだった。
 二人とも、着ているものはお世辞にもいいものとは言えなかったけれど、なにも知らない僕らは幸せで、不幸があるとすればいつか必ずやってくる「その日」があるのを知っていることだけだった。ただ幼さが持つ無知だけが、僕らの幸せを形作っていた。
 きっと人が見たら、僕らは兄弟のようだったろう。あるいは、双子にだって見えたかもしれない。
 もし僕がセルティクスでなければ、ラミィがオーパーツでなければ。僕らが生きる世界がこの世界でなかったら、僕らが帰る家があの場所でなかったなら…
 あるいは、僕らは。


 森を抜けると、草原の向こうにちょっとした洋館が現れる。小さな窓が、ぽつりぽつりと壁に装飾の真似事をしている。三階建ての古びた建物は、その古風で厳格な外見とは裏腹に、大人達の堕落と横暴とが住みついていた。そこに住む者も、訪れる者も、彼女達にとっては錆びついた刃物のような鈍さで、自分を苛む暴君でしかない。笑うことも戯れることも禁じられていなかったけれど、それをするのは僕ら二人だけだった。
 ここは、この世界で唯一彼女らの生業があるところ。僕らの家にはいつでも、堕落した生とくだらない生が息づいている。そして僕ら自身も、その二つの生のひとつずつだった。娼婦という言葉の意味を理解したのは、いくつのときだったろうか。
 僕らを管理する大人達は、驚くほどうまく家畜の扱い方を知っていた。感傷にもひたらず、理性にもかかわらず、自分たちに服従するものを金と快楽のための道具として使う様は、見事なものだった。一度なれてしまえばそれは日常だ。ここで育った僕らにとっても、それは寸分たがわぬ日常だった。
 身寄りのない僕を拾って育てたここの住人は、物心つくと同時に家事の全てを僕に教え込んだ。食事や洗濯や掃除、客の接待、そしてなにより彼女達の扱いを。商品である体を必要以上に傷つけないこと、気がふれないようにたまに話をすること、けれど一番大事な僕の役目は能動的なことではなく、彼女達のためのぬいぐるみになることだった。
 蔑まれて生きる彼女らは、何よりもすがるものを求めた。お互いを慰め合うよりは、自分らを支配する男達と同種である僕に泣きつく方が、慰められるものが多かったのかもしれない。彼女らが自身の境遇を慰め合う姿は、他のどんなときよりも貧弱に見えた。とても、不毛だったから。
 そんな彼女らの鬱積は、ほんの些細なことで突然堰を切ってあふれだす。そういう時に僕は、震える手で抱き寄せられ、僕よりも幼い子供のような嗚咽を聞かされた。小さな頃から、僕はずっとその泣き声を聞いてきた。それは僕の子守唄だった。泣きじゃくる彼女らの腕の中で、僕はある種のやさしさと、弱さを植え付けられていった。
 この世界では、彼女らを保護する文面は法にも人の心にも記されていない。ここの男達は皆、不思議な程の無感情さで、動物に対するときのような愛護心さえ排除した心で、彼女らに接した。僕らの住むこの世界では性は必要のないものだった。だからそれが生まれたとき、その性は従順な廃棄物として扱われた。僕の大切なラミィ、非力な同族、世界樹に吐き出された僕らの似姿。けれど彼らはそれを自分たちの伴侶(かたわれ)とは認めなかった。
 あるはずのない誕生、あるはずのない性。あってはならない命だといっていた。だから彼女らはできそこないだと――オーパーツなんだと。


 ここ数日、館は騒然として落ち着かない。この町に人殺しの噂がまいこんだのだ。役人が森を見回っている時に、何者かに殺された。その話はすぐに町中を駆け巡り、僕らの耳にも届いた。町では殺された役人とその犯人、現場の様子などが興味津々にかきたてられている。目撃者はなく、凶器もなければ遺体もない。血痕すらふき取られたような跡が残っているだけだ。けれど、町のだれも自分の身の危険を感じてはいなかった。
 しかし、僕らの家だけは違った。交代制で昼夜問わず見張りが立てられ、他の娼館からも人手を借り出し、物々しい警備が張り巡らされた。その間、本来の業務は全て停止している。損害額は跳ね上がるが、そうしなければ確実に被害が出るのだ。
 だれも犯人を見ていない。それが残したのは血の跡だけだ。それでもみんなが知っていた。それが誰か――何か。何が起こったのか。何が起こるのか。知っているからこそ、町の人々は自らの安全を信じて疑わず、僕らの家は恐怖に慄いた。
 理のようなものだ。誰かが殺されると、決まって次にオーパーツが狙われる。"彼ら"は人を食らう。渇望に狂った銀の狼。流れ落ちた血さえ惜しむように舐めあげ、舌が這いずった異様な跡が残される。その残酷な光景こそが彼らの証だった。銀の髪と瞳、人々が知るのは噂に伝え聞くその美醜。それ以外は僕らと何ひとつ変わらない容貌で、彼らは人の理を外れ、背徳を行う。誰もが知っていて誰もが理解していない、銀の狼レジーミラー。もうひとつの、あってはならない命。彼らは共鳴するようにオーパーツを求めた。
 だが、彼らはオーパーツを求めるも、けしてそれを食らいはしなかった。彼女らはただ殺されるのだ。しかし外傷はなく、彼女らの遺体はミイラのように、病原菌に侵されたかのように、又は腐り落ちたかのように醜悪な姿になる。理由は何ひとつわかっていない。レジーミラーに関しての研究は政府によって制限されていたし、ましてその研究対象自体手に入れることができなかった。つまり僕らの家のような娼館が、レジーミラーから彼女らを――館を守ることはもちろん、捕らえたり殺したりできたことはないのだ。それでも大人達はレジーミラーと争い、そして。
 オーパーツは彼らを待ちわびた。


 僕らが戻ったときも、家には変わらぬ緊張感が漂っていた。僕はラミィの手を引いて、強張った顔をした大人達の間をすりぬける。館を、ひいては僕らを守るはずの大人達は、けれど決して僕らを庇護しなかった。彼らにとって守るべきなのは自分たちの利益であって、僕らの命そのものじゃない。部屋までのほんの二十歩ほどの距離が、いたたまれない重苦しさに押し詰められて息苦しくなる。役立たずの羊に足元をうろちょろされて、気分のいい主人などいないのだ。まわりからの視線が痛い。下卑た笑みと見下した態度がからみつき、僕らの足を速めさせる。僕はラミィの手をしっかりと握りなおし、早くその場を駆け抜けようとした。
「ルーン!」
 聞きなれた男の声が、僕を呼び止めた。妙な不快感が心を占領する。僕は瞳を曇らせ、心の中で不満の声をあげた。けれど抗うことは許されない。僕は声のした方へ振り返り、ラミィの手を引いたままゆっくりとそちらに近付いた。
「どこにいってたんだ?」
「裏の…森に」
「今がどういう時だかわかってるんだろうな」
 苛立ちを隠しもせず、彼は僕らの顔をねめつけた。
「仕事もできない歳のうちにやられちゃ、こっちも困るんだよ。そいつには人一倍金がかかってるんだからな。わかるだろう?」
 ラミィは小さく唇を動かして返事をした。彼、ケストナーさんは、いつもこうして僕らに自分たちの立場を言い聞かせた。彼はまだ三十代半ば程の年で、ここの娼婦達の管理を全て任されている。そして、僕らに関しても最も干渉する立場にあった。彼は決して必要以上のいたわりも憤慨もせず、まさにここの大人達の上に立つ人間だった。そもそも僕を拾ってきたのも、ここで生きる術を教え込んだのも彼であり、それはラミィについても同じ事が言えた。
「事が収まるまでは森に行くなと言っただろう?ラミィ、お前は家を出ることも許さん。自分の部屋に居ろ。ルーンはやる事やってからだ。皆ピリピリしてるんだ。食事が遅れて、腹いせにどやされるのはお前なんだからな。」
 声を荒げることもしない彼の言葉に、僕はいつもどおり目をそらさず頷いた。
 彼は慣れの分だけ余裕を持っていた。たぶん、あれは余裕だったんだと思う。他の大人達がやたらと威圧的な態度を取るのに対して、彼だけは大人らしい物言いで僕らに接した。だから僕らも、何かあった時はまず彼に報告するようにしていた。もちろんそれは決まり事でもあったのだが、彼は彼なりのやり方で以って僕らに理解を示すことがあり、僕らにとって、それは身を守る為の唯一の手段でもあったのだ。そして、おそらくはそのことこそが彼を今の地位にせしめたのだろう。
 彼のせりふが終わったのを読み取った僕は、ラミィの横顔に小さく声をかけ、自分の成すべき事の為に踵を返した。
「――ああ、ルーン待て」
「…はい」
「今、レーナル氏が来てるんだ。ぼちぼち終わる頃だからよ、済んだらここへ来るように伝えておけ」
「…ペルヴァンシの部屋ですか?」
 彼はそうだ、と言い僕にさっさと行くよう促した。


 僕はラミィを部屋においた後、言われた通りその二人がいる部屋へ向かった。質素な造りの廊下の両側には、重い色をした木の扉が並んでいる。その扉に鍵はなく、必要があれば僕はどんなときでもその中へと足を踏み入れた。そう、過言ではなく、どんなときでも。客も、彼女らも、そういった時に僕が現れても気に留めなかった。だから僕はいつも、部屋の中で全てが済むのを待った。
 なぜそうするのかと聞かれれば、教わったままにしていると答えるしかない。僕は監視のための道具でもあり、感情を表に出さない僕の性質は、その仕事をこなすのに好都合だった
「ヴァンカ、もう何日もしないうちに君を迎えに来るからね」
 すぐに男の声が耳に飛び込んで来る。彼は既に身支度を整え、腕の中のオーパーツに別れを告げていた。この部屋と、彼女と、そしてあの長身の後姿。ここ一月で見慣れたこの部屋の風景。
「ええ…大丈夫よ。今はここもごたごたしていて、逆に私達には休養になっているの。だから、心配しないで大丈夫」
 彼女は不器用な眼差しを返し、自分を愛してくれるその男を精一杯の言葉で抱き締めた。くすんだ色の瞳と生気のない顔立ちはオーパーツ特有のものだ。特別目に映る美しさがあるわけでもないこの女を、レーナル氏は溺愛していた。彼はもう一度彼女に接吻すると、ゆっくりと振り向きこちらに声をかけた。
「やあ、ルーン待たせてしまったね。ケストナーが呼んでいるんだろう?すぐ行くよ。奴のことだ、まだふっかけてくるつもりなんだろう」
 彼は僕の頭に手を置き、やさしく微笑んだ。強い意志の感じられる瞳。彼は間違いなく、自分の欲するものを手にするだろう。それは、彼女にとっての不安をひとつでも取り除こうとする仕草でもあった。
 ここで育った僕にとって、彼のやさしさは驚くべきことだった。この腕が、この、傲慢で無作法なはずの"大人"の腕が、オーパーツを愛しているのだ。
 彼はその若々しい腕で僕を抱き寄せ、親愛の情を表した。僕が小さな手でそれを返すと、いい子だ、と一言残し、そのまま部屋を出ていった。
「ルーン、こっちへ来て」
 彼女は腰をかがめて僕に手招きをした。僕は言われるままに彼女の傍へ歩み寄り、その瞳を見つめかえす。はっきりとした色のうかばない、妙に変幻するくすみ。他のオーパーツと何ら変わらない瞳。だからこそ、彼女の目には当惑の光がうつろう。動物の手足のように細い腕をまわして、彼女は僕を抱きすくめた。
「ときどき、とても寂しくなるの。これからのことを思うとね。幸せって、どんなものかしら。私にはまだよくわからない。今も、とても幸せよ。でもね。よくわからないの…」
 その言葉は、僕には良く理解できた。きっと、彼以外の誰もが想像するであろう疑問。けれどそれを思い悩むことなど、彼女の境遇からしてみればほんのささいな刺でしかない。むしろ、それさえもが幸せと呼ぶべきなんじゃないだろうか?
「ルーン、私欲張りね」
「…もう…あと少しだよ。よかった。みんなが君に夢を見ているんだ」
 彼女は僕を抱き締める手を緩めると、不可思議な笑みを見せた。彼女の浮かべた微妙な心は、頬に、口元にたゆたい、けれど僕にその真意を伝えることはない。不安の原因はわかっても、その心持ちそのものを理解できるわけじゃない。彼女は、誰も感じたことのない不安をひとり抱え込まなければならなかった。
 愛されることの不安とはどんなものだろう。愛情を知らされなければ、それがどれほどのものか、衰えてはいないか、手に余ってはいないかと、自らを痛みにあずけることもない。彼女には愛される理由がなかった。名前以外に、仲間達――他のオーパーツ達と自分とを区別するものがなかった。どれほど愛を語られようと、やさしい愛撫を受けようとも、それを裏づけする為の自分という個性が欠落していた。何故、それでも彼は自分を愛するというのか。ただ彼は、その問いに答えはないと繰り返した。その答えがわかるくらいなら、私は君を愛したりはしないと。だから彼は愛情の答のかわりに、その証をたてた。
 一生傍にいよう。逢瀬を繰り返す者のように、度々の出会いを慈しむよりも、互いの傍らで共に生きよう。その花が咲く野へ、毎日のように会いに行かねば姿を見ることさえかなわぬ日々草(ペルヴァンシ)を、家の庭へ咲かせよう。彼はそのために出来る限りのことを約束した。それが彼女をここから――この僕らの家から、自分の元へ引き取ることだった。


 最初に彼がここへ来たのは二年前のことだ。初めて来る他の客の様子と大別なく、彼は落ち着かない面持ちで家の中を見渡していた。しかし、彼の姿を見たここの人間は一目でその裕福な装いに目をつけた。少なくとも、月に一度来るか来ないかの連中よりは明らかに金づるになる。この来訪を聞いて、商売には口を出さなかったケストナーさんが、自らその案内をかって出た。かといって、その時にケストナーさんがペルヴァンシを選んだわけではない。彼にとってオーパーツに大差はなく、胸を張って紹介できる娼婦がいた訳でもなかった。ただ、その時六人の娼婦の中で手が空いていたのが、彼女一人だっただけのことなのだ。
 そして、僕はケストナーさんに一部始終の監視をいいつけられた。初めての客が、急な感情の発露でヒステリックになることも少なくない。僕はいつものように彼らの部屋の端に座り込み、ただぼうっとその様子を見ていた。客のほうも、最初から僕がいることによって、勝手にそういうものなのだと理解してしまう。その妙な状況と羞恥心の欠如を言葉に出来るほど、落ち着いた客もいなかった。いや、落ち着いていたとしても、それを感じたかどうかはわからない。彼らは皆、ここのやり方について、ひいてはその行為について、悲しい程に無知だった。
 そんな中、彼はめずらしく僕のことを気にかけた。彼女を抱き締めながらもこちらを気にしてばかりいるのがわかる。僕は物怖じもせず、ただいつものように二人を見つめつづけた。
 彼が僕の存在に違和感を感じた様に、僕も彼にある種の違和感を感じていた。彼は心に余裕が出てくると、それまで以上に彼女をやさしく愛しんだ。それはとても不思議な光景だった。声を荒げることも、故意に苦痛を与えることもしなかった。今まで僕が見てきたのは、恐怖の色を湛えるオーパーツの瞳と、その服従自体に悦びを感じる下劣な大人達。けれど彼は一度も彼女を苛むことなく、最後まで彼女を労りつづけた。
 そのことは、誰より当のペルヴァンシ自身が感じていた。この人は自分を傷つけない。この人が欲しているのは自分の苦痛ではない。彼女は初めて、自分を抱き締める腕に特定の人格を意識した。それ以上に、彼は初めて抱いたそのオーパーツに固執するようになった。


 以来、彼はことある毎に彼女の元を訪れた。十日に一度、多いときは二度。氏と彼女の仲は皆に知れるところとなった。客として幾度となく訪れた彼は、一年の後までも彼女に想いを募らせ、そして幸か不幸かこの憐れなオーパーツに自分の愛を告げたのだ。
 その後、彼、レーナル氏はこの家から彼女を買い取ることを要求した。自分の持つ財産の一部を渡すことで彼女が自分の元に来てくれるのなら、こんなにうれしいことはない。ケストナーさんはペルヴァンシが一生かかって稼いだであろう金額の三倍を提示し、レーナル氏はその条件をのんだ。
 彼は愛しい人と生きる道を選び、そしてそれを手に入れた。たとえ彼女が、レーナル氏に愛情を感じていなかったとしても。ただその瞳が見ていたのが、愛されることの享受と困惑、あるいは幸福の形だったのだとしてもだ。愛情というものが、この世界に住む僕らにとって、セルティクス、オーパーツどちらであるにも関わらず、その知識からあまりに遠いものであることは間違いない。親愛の情ではなく、たった一人に対する特別な感情ともなれば、その存在すら知らずに生きていくのが当たり前なのだ。僕らの本能は愛情を必要としていなかった。
 僕自身もラミィに対してそういった愛情を感じたことはない。いや、語弊があるかもしれない。たとえ今目の前でそれを見せられようとも、僕にとってそれは言葉としても知識としても、完全に欠落したものだからだ。
 彼は僕らみんなに欠けている感情を、持ち合わせていたというだけのことなのかもしれない。だからペルヴァンシは、彼の愛情を救いの形としてしか見ることが出来なかった。それでも僕や他のオーパーツから見れば、彼女の掴もうとしているものは、夢物語のような幸福に違いなかった。


 彼女の引渡しは一月前に日取りが決められた。レジーミラーの騒動も重なって、家全体が忙しい日々を過ごしている中、ケストナーさんのはからいで、業務停止中も彼だけは自由にペルヴァンシに会うことが出来た。レーナル氏はこの一ヶ月の間、一日と空けずに彼女に会いに来ている。彼女の引渡しがあと五日後と迫った今日も、彼はいつものようにここを訪れた。
「君に会わせたい人がいるんだ。私の親友でね。とてもいい奴だから、安心していい。私の大切な人を、一日でも早く彼に教えたくてね」
 彼の申し出は、今までのどんな言葉よりも彼女を驚かせた。
「…ほんとうに?あなたのおともだちに会わせてくれるの?」
 単なる驚きにとどまらず、彼女はその表情に大いに喜びを含めて聞き返した。彼は当然のように頷いた。どんな贈り物をしても、どんな愛の言葉を伝えても、心の奥までみせてはくれなかった彼女がはっきりと感情をあらわす姿は、彼にとってどれほどいとおしいものに映ったろう。
 彼女にとって、その言葉の意味は、世界へ通じる鍵を与えられたようなものだ。彼がいままでくれたものは、彼と彼女の間にだけあるもので、逆にそれはとても移ろい易い約束だった。彼がいつ心変わりをしても彼女にはそれをひきとめるためにできることは何もない。彼は彼の住む社会ではどうみても"変わり者"だ。オーパーツに愛情を感じるなど、変質者として扱われてもおかしくない。その彼が一時の気の迷いで、もしくは個人的な愛玩として彼女を慈しんでいるとしても、いや、むしろそう考えるのが賢明というものだろう。彼女にはそれに抗う術も、理由さえもなかった。だが誰もがそう考えるこの世界で、彼は変異種である自分を個人的な所有物としてでなく、家族として迎えてくれる。大切な友人に会わせてくれる。女の形をしたオーパーツでなく、皆と同じようにひとりの友人として、愛すべき人間として家庭に迎えてくれるというのだ。
「明日の夜、彼を連れてくるよ。そうだな、多分夕食の後になると思う。」
 彼女は夢見るような心地で彼の申し出に何度も頷いた。ええ、待ってる。大丈夫よ、待ってるわ。
 僕とラミィは、愛し合うふたりの姿を、幼い眼差しでずっとみていた。
 その夜、レーナル氏はペルヴァンシの買い取りの為に用意した金を持参していた。結局、契約は当初の予定通りの金額で結ばれた。それでもケストナーさんには充分満足のいく結果だろう。紙に流麗なサインが記され、すべての事項が決定される。欲望が蔓延する部屋に歓声が響く。けれど、人生を選択された当の本人はその場にはいなかった。この場の主賓を見送る為に大人達が去った後には、喧騒の後の押し付けがましい沈黙と、先程レーナル氏がサインした紙とペンが残されていた。
 彼女の幸せを保証するその薄っぺらい紙切れが、どんな由緒正しい本の一枚目よりも貴重なものに思える。だから僕は、それを素直に呑み込むことができなかった。
 僕は、彼の忘れたそのペンをポケットに突っ込んだ。インクの黒が、僕の白い服を微かに染めた。


 僕らの部屋は全部でみっつある。僕とラミィ、ペルヴァンシ他五人のオーパーツはそこで生活していた。普段誰々の部屋といわれるのは仕事をするための場所であって、僕らの生活はそこにはない。レーナル氏の来訪の後、僕はそこで床に敷き詰めた藁をかきまわし、寝る準備をしていた。ちくり、と肌に慣れた心地よさが身を包む。耳元をくすぐる葉ずれの音にまじって、すぐそばで僕を呼ぶ声が聞こえた。
「ルーン…。ケストナーさん達は、レジーミラーのこと…何か言ってた?」
「…ううん」
 ただそれだけ答えた僕の髪を、ペルヴァンシの手がやさしくすく。
「レジーミラーが来ると…どうなるの?」
「私達の中の誰かが死ぬことになるの。私達はみんな、彼を待ってる…」
 彼女の言葉の意味はわからない。ただ僕はいつものように隣に寝転がったラミィの手をとった。掌の中にとらえたそれはとても冷たくて、だから僕は自分の熱を分け与えるようにぎゅっと握り締める。
「毛布を…」
 身体にかけていた大きな毛布で、僕はラミィと自分を抱き寄せるように包み込んだ。目の前にある瞳は、その温かさに細い笑みを浮かべる。毛布の中でふれる足も、手と同じように非道く冷たい。昔からずっとそうだった。この冷たい手を抱いて眠るのが、僕の一日の最後の仕事。
 ラミィは丸まった毛布の中に首をすくめるようにしてうずくまる。そこから目だけをだして、僕の背中側に寝転ぶペルヴァンシに視線をやった。
「でも、私は待ってないよ?」
 毛布の中でくぐもった声が、僕の胸にあたる。
「…そうね。」
 そういったきり言葉は返ってこなかった。彼女は起きあがり、窓辺に肌を寄せた。ぼんやりと浮かぶ夜の明かりの中に、暗い森の影が溶け込む。それを映す黒い瞳は、ここに意識がないかのようだ。けれど、流れる沈黙は不快ではない。ただ、僕はそのとき彼女の声を聞きたいと思った。
「…ペルヴァンシも待っているの?」
 振り向いた僕の問いに、彼女は目を伏せた。しばらく沈黙していた彼女の唇がゆっくりと動く。
「待っていても…願っているわけではないかもしれないね…」
 再び窓の外に流された瞳に、淡く霞む銀の月が映る。僕は月だと思った。なんて美しい月だろうと。ぼんやりとしたまま魅せられたように動きを止める彼女の目。その時の、やさしい憂いに陰を落とした瞳を、よく覚えてる。