Malorn's Diary
−2−



毒に侵され腐り落ちた果実
それをはむ 清らかな唇

   君の死と同等の僕の愛
 君の死と同じくらい静かな僕の罪

叫び声も、嗚咽すら聞こえない 幸せの涙

その幸せほど果てに



いっそ届かなければ















7月4日
何を記せばいいのかわからない
毎日が ただひとつの感情に支配されて
日がのぼっても月が満ちても
僕には何の区切りにもならない
怠慢な圧力に押されて ただ足が前に流されるだけだ
絶望が日常になっても
苦しみに慣れるなんてありえない
ひたすらに自分の無力さを思い知らされ
独りになるたび
無防備な体を大地に投げだす
どうすればいいのか わからないんだよ
わからない  理解できない---
僕はいつも  何も知らないんだ
自分の身体も 精神も  このいまわしい血のことも
何もかも”知らない”ですませられることじゃない
僕はもっと苦しみを知らなくちゃいけない
     君を 知らなくちゃいけない
明日の朝 --教室の友人に君の名を聞くよ
それはきっと 僕の胸につきささった
ナイフに刻まれた美しい言霊だろうね

本当はね  とてもつらいことがあったんだ
君のうわさを聞いてすぐ
僕は 僕だけの  あまりにも大切な友人を失った
彼は何かとてつもない苦しみを抱えていた
けれど それを知る者は誰もいないんだ
それどころか --彼を知る者がいただろうか
誇張でも過言でもなく
彼は独りだった
唯一話し相手だった僕でさえ
本当の彼のことは ほとんど知らないんだ
多くは言えないけど 君はわかるだろう?
彼の苦しみがどれほどのものか
君ならきっと想像できるはずだ 僕のさみしさもね
そして このたまらない胸の空隙をうめられるのは
君以外にありそうにない
愛してる    幸せになって欲しい
愛してるよ   だから君の願いを叶えてあげる
君には幸せをつかむ権利がある
そのために 僕を忘れることが必要なら
何もなやむ必要はないんだよ






















たとえ結果的にであれ
僕は君の幸せのために貢献することができる
こんなにすばらしいことがあるかい?
そうしたら 僕は一生をこの罪にあけくれよう
他の誰かのものになった君を
忘れることのできないこの罪に生きよう
もうこれ以上
この汚い感情を君に見られたくないんだよ
僕を忘れて欲しい
君を忘れることなんてできない
愛してる
愛してるよ
水が海をめざすように
星が宇宙(そら)へ帰るように
果実が地に落ちるように
僕が君を愛するように
大人になれなかった子供の犯した罪が
少年の原罪へと巡るように-----……
『やりきれないんだ。--君、もうだめだ、僕は。これ以上は
 だめだ。今日、Lの横にいた --すわっていた、Lは
 ピアノを弾いた、いろいろのメロディー、それからありと
 あらゆる気持ちを、ありとあらゆるだよ --全部だ、
 どう思う、君は。 --何かこみあげてきて、息がつまり
 そうになる。--「頼むから」はげしい感情の爆発とともに
 ぼくはLのそばにかけよった「頼むからやめてください」
 --僕はさっと身をそむけて帰ってきた。そして--神よ、
 あなたは私の悲惨をごらんになっておられる。だから
 この始末をつけてくださるでしょう  』
『Lの幻がつきまとって離れない。夢にもうつつにも
 それが心を占領している。眼を閉じるとこの眼の中に、
 内面の視力が集まり会うこの額の中に、あの黒い眼が
 現れてくる。ここだよ、うまく言えない。目をつむると、Lの
 姿が出てくる。海のように深遠のように、あの眼はぼくの
 前、ぼくの中にやすらっていて、ぼくの額の感覚を
 満たす
のだ。      』





















『彼女がいるということ、彼女の運命、ぼくの
 運命に対する彼女の共感、そういうものを思うと、
 ひからびた脳髄からも最後の涙が絞り
 出される       』


7月9日
症状がだんだん悪化してきた
君と別れる前のことはもう何も覚えていない
この本がなければ
君のことはもう何ひとつ覚えていなかっただろう
最近はほんの1日前のことさえ
はっきりとしなくなってきた
それが10日も前のこととなるとお手上げだ
友人に聞いた君の名も
どこかに記しておかないとすぐ忘れてしまう
自覚症状もなくなってきている
けれどかわりに僕を支配する
この感情 --記憶?は何だ?
景色が見える
利発そうな金髪の少年と
髪の長い美しい少女がいる
そしてそのかたわらに
ああ、あれは --銀の狼の少年だ
けれど あれは何だ?
その銀色の獣はひどく弱っていて
薄汚い双眸で少女を見つめている
銀の髪と瞳はあんなに美しいのに
あんなに醜い獣を僕は見たことがない
それは表面的なものだけでなく
内面からくる醜悪さだ
けれど ----…彼はかなしそうなんだ
涙がこみあげてくるのに
それを押しだすことを禁じられているかのように
ああ、ほら ごらんよ
たった今、やさしい少女がその獣に向かって
かよわい手をさしのべている
金髪の少年はじっとそれを見守っている
銀の獣は 最後に残された希望のかけらに





















その震える手をのばす
ああ、なのに、なのに、
どうして こんな ------ひどいよ
その手が触れたとたんに
少女の体がくずれていくんだ
声にならないさけびがあたりをふるわす
金髪の少年がそこに駆けよる
銀の狼は彼女の屍に身を伏せ
身体をひきさくような鳴き声をあげる
それが僕の頭の中に残ってはなれないんだ
気をゆるめるといつでもあの
絶望と、悲しみと、ちぎれるようなせつなさと、
精神の破滅する音が
あの鳴き声が僕の中にひびきわたる
いやだ、嘘だ!
あれは僕じゃない
僕なんかじゃない!!
僕は君をほろぼしたりしない!
愛してるんだ
ただ、それだけだ
僕は、ただ、それだけなんだ!!
ちがう
ちくしょう
僕は汚い--!
あの獣よりも
誰よりも醜い!
いやだ!こんなのはいやだ!!
誰か ---誰か殺してくれ
僕を殺してくれ
誰ができる?
おまえのように汚いものを
誰が殺せる!?
ああ ---君、君、僕を殺してくれ  
だめだ
君はできない
これほど君だけを想い
君だけに生きてきた僕を
殺すことなんてできない!
君が僕にその刃を触れたら
君が 触れたら--





















---触れる!?
君が この 僕に!? 触れたら---!?



『--この世じゃ僕があなたに恋し、Aの腕から
 僕の腕にあなたをもぎとろうというのは罪でしょうよ
 罪だ?よろしい、僕は自分を罰してやる。僕は
 罪をたっぷりと心たのしく味わったのだ、この罪を。』
『さあL、僕はためらうことなく冷たい死の杯を
 とって、死の陶酔を飲みほしましょう。あなたが
 差し出してくださったのだ、どうしてためらうことが
 あるでしょう。僕の生涯の念願や期待はひとつ
 残らずすべて満たされたのです。僕はこんなに
 冷然と、こんなに頑固に死の鉄の扉を
 たたこうとしています。
 ---ああ、こんなことになろうとは思わなかった。
 --落ち着いてください、お願いです。
 静かにしていてくださいよ----
 弾丸はこめてあります
 一二時が打っています
 では やります
 L、L、 さようなら           』
7月18日
僕を変えるのは君の真実だけだ
僕はとどめておくのは君の記憶だけだ
僕は自らの意志ではなく
君の摂理によって生かされている
僕の願いは君の運命だろうか
僕は君に会いたいのだろうか
どうして会いたいと思うのだろう
会ってどうするというんだ?
何もわからなくなってしまった
ならばその何かを教えてほしいのだろうか
違う  違う





















そうじゃなくて
何か もっと -----別の
---…もう つかれてしまった…
一体何のために
僕は
この言葉 を 書いて



『いつも変わらなくてこそ、ほんとの愛だ。
 一切を与えられても、一切を拒まれても、
 変わらなくてこそ           』
9von Goethe    
『お前の努力は愛の中にあれ
 お前の生活はおこないであれ      』
9von Goethe    
『愛人の欠点を
 美徳と思わないほどの者は
 愛しているとは言えない     』    
9von Goethe    


7月22日
僕は弱くなったんだろうか
一日中虚空をみつめて
自ら何の言葉も発さず
習慣と本能だけに身を遊ばせ
夜になると  ここで泣いている
もし教室の仲間達がいなかったら
僕はとっくに自覚のない死を迎えていただろうに
僕は弱い生命なんだろうか
君のこと 考えるだけでくずれそうになる
僕はどうして泣いているんだろう
かなしいから?
どうして かなしいの?
自分の望みがかなわないから?
そんな単純なことじゃないよ
なんで泣いているのかなんて





















そんなの  僕だから としか言いようがない
それを どうして弱いだなんて言うんだ
君を --愛する人を想って泣くことが
どうして弱いんだ
あまりにもくだらなすぎてこれ以上反論もでてこない
最低だ
人の気持ちをしらない奴に
人の気持ちをとやかく言う資格なんてない
けれど そういう奴にかぎって
わかったような口をきくんだから
時々 --どうにかしてしまいたくなる
この血の衝動に
全てを委ねてしまいたくなるんだ



『いつも同じ花ばかりなので、花より他の何かを
 お送りすることができたら、と思います。しかし、
 それは愛についてと同じことで、愛もまた単調
 なものです     』    
10von Goethe    
『われわれはどこから生まれて来たか
 愛から
 われわれはいかにして滅ぶか
 愛なきため
 われわれは何によって自己に打ち克つか
 愛によって
 われわれも愛を見出し得るか
 愛によって
 長い間泣かずに済むのは何によるか
 愛による
 われわれをたえず結びつけるのは何か
 愛である  』

7月23日
友人が増えるのは悪くない
次の日になればいつも忘れてしまっているけどね
ただ それも好意があればこそだ
悪意のある人間はすぐわかる





















目が合うと、必要以上に
瞳の奥をのぞきこんでくる奴だ
町でそういう奴に会った
旅をしていると言っていた
なぜか僕にずいぶん興味を示して
混血の狼なんてめずらしくないとは言わないけど
あんなにしつこくする程のものでもないのに
それとも城内にいることがめずらしかったのかな
けど僕は最後まで自分のことを話す気には
なれなかった
しばらくしたらあいつと会った店へ、仕事でまた
行かなくちゃならないんだけど
正直言って もう会いたくない
なんていうか …嫌悪感があるんだ
僕もずいぶん汚い人間になったもんだよ
こんなに
--…他人を悪く思うなんて
今までのこういう感情とは違うんだ
僕の心は人を憎みやすくなっている
どうしてだろう
どうして君を愛するこの心が
こんなにも 人をにくむことができるんだろう
でもね、この感情は決して
君に関するできごとのせいではないよ
君を想うことは 僕に最高のやさしさをくれるんだ   
そのやさしさの影にうごめくあの感情は
生まれた時からずっと僕の中にあったあれは
------…血のせいなんだろうか
この醜い心が 僕の真実なんだろうか



『人間のあやまちこそ 人間をほんとうに
 愛すべきものにする          』
7von Goethe      

『ひとりの人を愛する心は、どんな人をも
 憎むことができません         』
7von Goethe      





















『空気と光と
 そして友だちの愛
 これだけ残っていたら、
 弱りきってしまうな       』
11von Goethe      


7月25日
気がつくと いつも どんな時も
君であふれている僕がいる
どんな感覚かわかるかな?
のどの奥の空気が膨張して内側から圧迫されて
息苦しくなったかと思うと
押し出されるように目頭に涙がうかんでくる
指先まで力が入って全身が震えて
次の瞬間 文字通り僕の心から君があふれるんだ  
でも その一滴さえ僕からはこぼれてしまわない
そのあふれだす何かは 全部、一滴のこらず
僕の体のすみずみに浸透するんだ
僕の外にあふれてしまうのは涙の雫だけだ
でも僕は それをこの地に与える
毎晩 毎晩
これが たったひとつの僕の仕事だよ
これからも ずっと ずっと
ずっと



『自発的に頼るといのはこの上なく美しい状態である
 そしてそれは愛なくして、どうして可能であろう 』     
11von Goethe      

『愛のないものだけが欠点を認める。したっがて、欠点を
 看取するためには、愛をなくさねばならない。しかし、
 必要以上に愛をなくすべきでない     』
12von Goethe    

『情熱は欠陥であるか、美徳であるかだ。ただどちらに
 しても度を越えているだけだ。大きな情熱は、望みの
 ない病気である。 それを癒し得るはずのものが、
 かえってそれを全く危険にする    』     

19von Goethe