次の日の夕刻。その日は既にレジーミラーの事件から一週間が経っていた。相も変わらず騒然としている僕らの家は、あれ以来身を潜ませている銀の狼の行方に翻弄されたままだ。すっかり存在をくらませてしまった獣に打つ手の尽きた大人達は、かといって警戒を緩める事も出来ず、非道く苛立っていた。
 あのふたりの約束を知っていた僕らは、彼女と同じようにレーナル氏とその友人が来るのを心待ちにしていた。食事を終えた僕はその片付けの為に残り、ラミィはペルヴァンシと共に彼女の部屋へ行った。五十枚程にもなる皿を洗い、床を掃除して、酒と小さな料理、それから明日の朝食の支度をする。すべてを終えるころには、すっかり夜も更けていた。ケストナーさんに諸々の報告を終えた僕は、やっとのことでペルヴァンシの部屋へ向かう。もう着いているはずだ。掃除をしていたとき来訪者があったのを耳にしたから、たぶんあれが件の友人なのだろう。まるで自分の親が、贈り物を持って会いに来たかのような気持ちだった。だから、彼女の喜びや期待も僕には感じられたし、これからのことぜんぶをこうして話せるのも、理解できるのも、きっと僕だけだろうと思う。
 部屋に入って最初に気になったのは、ラミィがいないことだった。扉を開けた僕を皆が振り返る。見慣れた長身の横に、同じくらいの背格好の、人の良さそうな顔が見えた。彼は僕が入ってきたことに少し驚いて、それからほっと溜息をついた。レーナル氏よりももう少し物静かで、むしろ若い印象を受けた。けれど彼がペルヴァンシを見る眼差しは、レーナル氏と同じように慈愛と擁護を湛え、とてもやさしく暖かい。
「ルーン、ラミィは部屋へ戻ったよ。彼女はまだなんだろう?」
 レーナル氏の言ったことに僕は心の中で首を傾げ、表ではわずかに目で頷いた。彼女もその言葉には関心を示さなかった。こうした行動は、僕らの心に根付いた病巣だろうか。
「オーパーツを見るのは初めてなんだ。…とても、不思議な感じがする。」
「彼女は特別さ。でも、そういってもらえてよかった。」
 ペルヴァンシはふたりの会話を聞くだけでほんとうに嬉しそうに微笑んだ。理屈ではないのだ。こうしてここに自分を愛してくれる人がいて、その友人が自分を受け入れてくれる。彼らは、彼女や僕の同類ではなかった。だからこそ彼女はこの時間をいとおしく感じることができる。
「正直なところ、私以外の人物が彼女をどれくらい理解できるか心配ではあったんだ。でも、ほんとうによかった。ヴァンカ、君は?」
「同じ気持ちよ、…たぶん私のほうがずっと不安に思っていたから。でも、あなたのおともだちだものね。大丈夫。」
 微笑む瞳をそのまま抱き締めるように、レーナル氏は軽く腕の中に彼女を包む。僕はなぜだか、妙に落ち着かないような心持ちでそこにいた。約束の時間を目前にして、全然違う場所で立ちすくんでいるかのようだ。何かを待っていた。欲してはいないけれど、来るのを知っているからというだけで、ただ待ち焦がれていた。
「彼の実家もなかなかの家柄でね。こういうところに来るのをひどく煙たがるんだよ…それで私が色々話してやって、やっと今日ここに来る決心がついたんだ。ヴァンカ、彼の事よろしく頼むよ。」
 今度は否が応にも関心をひかれた。言葉を呑み込む為の何かが欠けている。しかし、何が欠けているかは問うべき事ではない。彼がここに来た意味を、僕らは知らなければならない。彼女を愛したやさしいひとが、その両手で彼女に与えるものを。ただ、…僕らはふたりとも、たぶん心のどこかでその言葉を待っていたんだろう。困惑を表情に出せるほどの勇気も、持ち合わせていなかったとしても。
「じゃあ、私はこれで帰るとするよ。他の誰かでもよかったんだが、今は例のレジーミラーの件でここも動いてないからな。それに君でなければ、ほんとうのところの意味もない。君は特別な人だからね。」
 この場にいて僕に違和感を抱かせていたのは、愛し合うふたりでも、それを見てる僕でもない。僕は会いたいとは思わずに、ただそれを待っていた。出会ったそれは、僕の違和感の答を差し出す。彼の言う言葉の意味を、彼女はどれくらいの賢さで理解したのだろう。
「いいかい?」
 何をどう答えればよいのか。ただ彼女はいつもの口癖をその唇にのぼらせた。
「ええ……大丈夫よ」
 彼は言い訳のひとつもなく部屋を出ていった。最後の抱擁だけが、彼女に苦い酒を与えた。


 それから僕の前で起こった事は、僕が小さい頃から幾度となくみてきたものと何ひとつ変わらない、あの虐待そのものだった。初めて見る彼の手はあの人に似て優しかった。声を荒げることも、故意に苦痛を与えることもしなかった。僕は妙に渇いた目でその光景をみつめていた。時間が、非道くもどかしく感じた。
 静かな部屋の中には僕ら三人の目があって、けれど見ているものは皆違っていた。僕は二人をみてはいない。僕の視界を占領する彼女の姿、彼女の腕が、空を泳ぐ。その指先が…力を失うかのような儚さで、僕の方へと伸びた。追い立てられる小動物のような瞳で、彼女は僕をみつめる。僕は視界を揺らすことすらせず、ただ、その憐れに横たわる姿を見ていた。合わせられた視線は、彼女の頬にわずかに零れる涙にさえ惑わされることなく、ひたすらその表情を追う。彼女の瞳は何も訴えては来なかった。
 君が望むのは、救いの手じゃないもの。これが苦しみであることを、痛みであることを信じさせて欲しかったんでしょう?でなければあの人に裏切られたこと、今ここで抱かれていることを、自分が苦しいと感じることさえ否定されてしまうから。彼らは苦痛を与えているとは思っていない。じゃあ、彼女が今苦しむのは間違っているのか。
 ただ信じさせて欲しいんだ、それくらいは、信じてもいいじゃないか。君を愛した人が与える痛みを。その、刃を。彼は、君に差し伸べた手が、君の肉を斬る剣であることを知らなかったんだ。けれど、それでも、斬られたらやっぱり痛いんだよ。それくらいは、僕らが決めてもいいじゃないか。
 僕に向かって伸ばされた彼女の手の方へ、僕は膝の上の指をほんのわずかに動かした。その手に応えるように、指先の行方を彼女のものと重ねた。僕はこの小さな処刑場の端に座って、彼女の手に入れた愛の行く末を見守っていた。
 彼女が必要としていたのは、ただ自分を労わるあの手、あのやさしさ。彼女にとっての幸せとはそういうものだった。憐れにも、彼女はそれ以外のもので両手をいっぱいにしながら、いちばん欲しかったものを得ることができなかった。夢物語のような望みすら、心から願ったことなどなかったんだ。けれど、優しい人の紡ぐ愛の言葉が、いつしか彼女の中にある種の期待を抱かせていたとしても、彼女に罪はない。
 ただ、罪悪でないからといって罰が下されないとは限らないのだ。それこそが、彼女らの苦しみの源泉なのだから。
 その夜、レーナル氏の友人が帰途についた後も、彼女は自分の部屋から僕らの寝室へ帰ってこなかった。


 あくる日、ふたりは当然のごとく顔を合わせた。あの夜を越しても、ふたりの様子は今までと何ひとつ変わらない。ペルヴァンシには彼に格別かける言葉はなかったし、その言葉を思いつきもしなかった。レーナル氏を憎くも思っておらず、むしろ自分の中を彼が占めるところは確実に増していたのだ。その理由がなんであれ、彼女はひたすらに心をめぐらせた。その姿は友人の話をする以前の、心を見せない彼女そのままだった。いつもと変わらない時間、けれど彼女は彼のことを思いつづけ、やがてレーナル氏はその様子に気付かざるを得なかった。なぜなら、彼もまた彼女を心から愛していたから。
 先に違和感を口にしたのはレーナル氏だった。
「何かつらいことがあったのかい」
 彼女は自分の問われた意味を一瞬理解できなかった。ふと視線を止め、彼の頬に触れ、いつものようにやさしく俯く。
「そう…そうね…でも大丈夫よ。とても…取るに足らないことだから…とてもね」
 彼女は笑んだままそれを口にした。
 彼女のその言葉を聞いてレーナル氏は初めそれ以上の追求をしなかったが、やがて耐えきれずその細いからだを掻き抱いた。何度となく心を開いてくれと切願した。しかし、彼女に応える術はない。それは昨日の出来事のためではなく、彼女の心に彼が入れないのは、盲目の彼が扉をみつけられずにいるだけなのだから。しかし彼にはそれを理解する事は出来ない。腕の中を占める彼女のからだが無抵抗なほど、彼は苦しみを覚え、あえて苦言をもらした。ペルヴァンシはどうすればよいのかわからず、ただ黙ってその腕に抱かれていた。やがて彼は、自分の感情に耐えきれず彼女を解放する。自分の中から儚い温もりが消え失せ、そこに入り込む冷たい空気に追いやられるように、彼女に背を向けた。そのときになって、ペルヴァンシはやっとのことで彼に縋った。身の馴染んだその背から恵与された望みを、自らの口で懇願した――
「ああ、いかないで頂戴、私、あなたを責めることも傷つけることもしなかったでしょう?」
 彼女の声色は、光というよりは夜に呑まれる墓地を照らすランプのように、灰暗い色をして彼を照らした。映し出された彼の紅い唇は戚然として震え、けれどいとしい彼女の耳を傷つけはしなかった。
「次に会うときは君を迎えにくる日だ…そのとき、また…」
 静かに息を呑み、それだけで部屋を出ていった。彼女の視線にさらすまいとしたその顔は苦渋に満ち、胸苦しい哀切を訴えていた。せつないということばを、僕ははじめて目の当たりにしたような気がする。静まり返った部屋に、まだ扉の閉じた音が残っているかのようだ。いっそなにも聞こえなければいいのに。彼が出ていった扉の前で、彼女は立ち尽くした。いつもの、あの優しい憂いが影をひそめる色で。悲しいとも、苦しいともとれなかった。
「きっと…たくさんのものを望みすぎたのね…」
 一体彼女が何をしたというのだろう。けれど、やはり彼女はそれを望んではいけなかった。それは望むことなしに与えられるべきものなのだ。それでも、なればこそ。一体彼女が何を過ぎたというのだろうか。
 あの男は優しさと愛情を見せつけ、だのに彼女を守る術の一切を放棄したのだ。


 その日は昼間から雲が重く重なっていた。レーナル氏との別れの後、ペルヴァンシは僕らの部屋でずっと横になっていた。他のオーパーツ達も、業務停止の間はずっと自分達の部屋で一日を過ごす。出入りがあるとすればだいたい僕かラミィで、あとはそこに横になっているペルヴァンシくらいだ。けれど、今の彼女がその扉をくぐることはない。
「ルーン…痛い……胸が痛いの…薬を…」
 彼女は体をまるめるようにして、痛みに眉をひそめている。僕の視線よりももっと下に彼女の顔はあって、なんだかそれが妙に痛ましかった。薄汚れた肌に砂の混じった汗が浮く。
「すぐ、もらってくるよ」
 隣に座っていたラミィに彼女を頼んで、僕は部屋を出た。扉を閉めると、痛みに喘ぐ彼女の呼吸がぱたりと聞こえなくなる。あの痛みは、この扉の向こう。こちら側にはなんの響きももたらさない。部屋の外で僕はとても孤独だった。あの痛みの傍にいる間、僕は確かにひとりではなかった。
 カウンターに向かった僕は、苦々しい談笑を交わす大人達の会話に押し入った。自然と目が逸れる。この男たちの軽蔑の視線を、今は見たくない。
「薬?どこが痛えんだって」
 けだるげな体を椅子にもたれて、面倒そうに応えてくる男。がっちりとした体躯に細身の剣を何本も携えている。しかし、それを体につなぎとめる金具は緩み始めていた。レジーミラーに対する緊張感が薄れてきているのが、目に見えてわかる。
「胸が…痛むそうです」
「内臓じゃねえだろうな」
 彼はそう言って僕に薬箱を渡した。
「何かあったら必ず報告しろ、いいな」
「はい…」
 受け取った箱を両腕に抱えて、僕は部屋に駆け戻った。何の為に報告をしろなどと言うのだろう。森の中で足を失った蟻に、何かあったら報告しろなどと言うやつがいるのか。
「もらってきたよ…」
 部屋に戻った僕を、ラミィが不安そうな顔で振り向いた。彼女の向こうに、変わらず苦悶の表情を浮かべるペルヴァンシの姿が見える。その痛みを目の当たりにするには、彼女はあまりに純朴だった。僕はラミィの手を取り、心配ないからと囁いてペルヴァンシの方を見やった。
「ルーン…ルーン私どうなってしまったのかしら。痛みが消えないのよ。あの人のことを思うと胸が痛むの……ああ、薬を頂戴。……もうひとつ」
 青ざめた頬は汗に濡れて疲労の色を濃くしていた。息苦しい呼吸に喘ぐ隙間に、薬を飲み干す。一息に水を流し込むと、彼女は再び横になって息をついた。
「……大丈夫…?」
 腕にしがみつくラミィの不安を自分の手にも抱えながら、僕はペルヴァンシの額に手を置いた。ひんやりとした感触が広がる。ラミィが、彼女の名を小さく呟いた。不安。なんの不安だろう。夢を見たそのひとが、今目の前で苦しんでいることの不安?僕らの居場所が、希望が無意味なわけではないと妄想で塗り固められていたそこが、目の前の現実そのものだと思い知らされる瞬間。なによりも、僕らは彼女だけは世界でただひとつの特別を手に入れるものだと信じていた。
「…ルーン…ここにいて…――ああ、死んでしまいそう。なぜこんなに痛むの?私、幸せなはずなのに」
「ペルヴァンシ――眠ったほうがいいよ」
「ええ、そうね…本当にそのとおりね。でもルーン、ここにいて頂戴、目が覚めた時にひとりでいるのは嫌」
 眠りから覚めれば僕らはまたここで生きていく。彼女は、あのひとと共に生きていく。どちらが幸せというものだろうか。どちらもちがうとは、思いたくない。けれどその選択肢が僕らに伝えるのは真実だけだ。僕らはここで生きていく。
「うん…ここにいるよ……」
 瞳を閉じた彼女は、気が安らいだように眠りに落ちた。寝息が聞こえるのを待ってから、僕はラミィの手をとって窓の下に座り込む。斜めに夕焼けが射し込む境界線の下で、僕らは頬を寄せた。冷たい頬。ペルヴァンシの額の感触が、掌に湧き上がってくるような気がする。視線を合わせるでもなく、僕らはじっと日の色が移り変わっていくのを見つめていた。つま先にあった光の端が、逃げるように遠ざかり薄くなっていく。
「ねーえ、ルーン」
 聞きなれた響きが、僕の口元にふれる。まるで自分が言った言葉かと間違うような親しみで。
「…何?」
「ペルヴァンシ…だいじょぶなのかなぁ」
 ラミィは足元を見たまま心細そうに手をくゆらせた。僕は彼女の両の手を自分のそれに包んで、ゆっくりと吐息を聞かせるように間をおいた。
「…うん。きっと、約束の日が近くなって緊張してるんだよ。薬を飲んだし…目が覚めたら元気になってるよ」
 じっと僕の言葉に耳をすませていた彼女は、嬉しそうに目を細めて僕の手を握った。
 僕にはペルヴァンシの苦痛の意味はわからなかった。このときの僕は、経験のない痛みを理解できるほど大人ではなかったし、また愚かでもなかった。自分の中に流し込んだ異物が、肢体の肉を満たしていくときの抵抗と侵食がもたらす横暴な痺れ。それがこの胸の痛みをも食らい尽くすと信じてた。
 気がつくと、窓から射す夕日が部屋の明かりに呑まれて消えていた。


 その日の仕事を終えた僕は早くに眠りについた。いつものように腕の中にラミィを抱えて、浅いまどろみの中に身を泳がせていた。頬を照らす窓からの冷たい輪舞に、艶やかな溜息の旋律が混じる。僕はその音色に目を覚ました。目の前のラミィは合わせ鏡のようにじっと動かず、静かな寝息を立てている。瞳をそのままに、僕はもう一度部屋の物音に耳をすませた。
「……ぁあ」
 とても、ゆっくりと息をつく呼吸は、涙の混じるようなはかなさで誰かの心を揺さぶる。一瞬で恋に落ちていくその声色に、僕は身を起こさずにはいられなかった。
「……ペルヴァンシ…」
 色鮮やかな視界が、単色の光景を繊細に映し出す。意思の通じていないかのような彼女の体。その中で、唯一生命の営みを象徴する唇の赤。ふと気を緩めれば、部屋を満たす色に呑み込まれそうな弱々しさ。けれど瞳ははっきりとみつめていた。窓の外に心奪われそこに立ち尽くす彼女は、もう一度歓喜の溜息をつくと、引っ張られるようにして扉の外へ駆けていった。
 僕は魅了されていた。音に、光景に、香しい気配に。遠ざかる彼女の足音に誘われるようにして、僕はその後を追った。廊下の端、階段の向こう、揺れるように駆ける彼女の後姿。少しでも目を逸らせば、もう二度とみつけられない。焦りと昂揚を抱えた僕は、そんな不安に惑わされながら必死に小さな姿に追い縋っていく。三階まで上がってくると、白い服は扉を開けその部屋に飛び込むようにして消えた。昼には彼女と、あの長身の後姿、そしてすべてを見届けたそこに。僕は息を呑んで、開いたままの扉からその中へ震える足を踏み入れた。
 まるで、心がはじけとぶような気がした。皮膚という皮膚が痙攣するように震え、感情が僕から連なる空気を埋め尽し、そのふたりを包み込む。部屋の中に息づく神秘。ほんのりと浮かび上がる銀の姿態。質素な部屋の耀く床に、真白な雪が煌くように佇む姿は、そこに憧れの思いを抱かずにはいられなかった。月の微笑が足早の雲の隙間を横切り、靄と蒼い蛍のような灯りをあてる。得も言われぬ姿。心が奪われる。
「痛いの…?」
 かろうじて聞き取れたその声に、しがみつくような思いで心の淵を這い上がった。彼女のつぶやきは銀の狼にふれ、その欲望に道を授ける。微かにゆれた彼の輪郭は至る所が爛れ、その緩やかな線を乱していた。渇き、剥がれ落ちる鱗のような皮膚が、不気味な印象を与えてくる。だのにそれが彼の玲瓏な姿を侵すことはなかった。僕は縋るような思いで彼女に視線をやった。彼女の瞳に映る銀。見覚えのある、あの美しい色、銀の月のような…ああ。あの日、あのとき、彼女の瞳に映った銀の月は、既に彼女をその魅了の泉に捕らえていたのだ。
「…そうね。ああ」
 彼女は感動に打ち震えるようにして感嘆する。そしておもむろに降り向き、僕にやさしい笑みをくれた。
「ルーン…もしあの人が私の姿を見て、泣いてくれたら。愛してる、と伝えて。あの人は私にすべてを教えてくれたのだから。」
 ―――そう。愛情も、苦しみも、痛みも、そして――何より、人を慰めることの喜びを。


「お願いルーン、そこにいて頂戴…怖かったら眼を閉じていいわ。だから、そこにいて」
「…うん……」
 そうして彼女は傍らにいる銀の狼を受け入れた。僕はじっと横でそれを見ていた。心の底から来る死とレジーミラーに対する恐怖は、僕の体を壁と床に縛りつける。座り込んだ僕の体は力無く、ただ彼女の横顔を見つめていた。
 二人の姿は静かに絡み合い、仕草ごとに重ねるものを増していく。幾度となく戯れに見せられた行為が、また目の前で繰り返される。銀の狼の姿は醜く妖艶で、非道く美しかった。僕らの心を惑わすしなやかな肢体、神秘的な銀の髪と瞳。けれど、その醜悪な容貌は表情すら伝えない。野生の獣の様に感情を読み取ることもできない。二人の姿はまるで神話の中の儀式のようだった。そして又、ただの、けれど真実の恋人のようだった。
 部屋はとても静かだった。優しく交わる二人はこの静寂を破ることすら由とせず、小さく耳に届く響きは僕の胸を締めつける。こんなにも美しく、優しく、幸せそうなオーパーツを見たことはなかった。母のように姉のように、彼女に対する親愛の情は抑えようもなく、それは僕の瞳から涙となって溢れた。
 立ち上がり、床を蹴って彼女にしがみつき、彼女のいちばん傍でその名前を呼びたい。けれど僕は動けない。どんなに彼女に近付こうとも、今彼女にいちばん近いのは僕じゃない。そして、あの銀の狼でもない。今僕がこぼす涙も、この部屋の静寂も、彼女の微笑みも、彼女の傍らにいて、今まさにすべてを包み込もうとしているものの為に生まれているのだから。何よりもゆるやかに満たしていく。その死に。
 そしてゆっくりと迎える無音の悲鳴。
 最後に残ったのは、僕の涙がこぼれる音だけだった。

 涙と心の高揚に疲れきった僕は、そこに座り込んだまま、息切れてその光景を見つめていた。動かなくなった彼女に重ねた体を、彼はなかなか離そうとしなかった。間もなく彼女の遺体は変化をはじめた。皮膚が蠢き、色を変え、肌は渇き、目は窪み、体全体が腐蝕していく。疫病のような斑点が全身を覆い、すべてが終わると彼女の体はもとのふたまわりも小さくなっていた。不思議と恐怖は感じなかった。僕は目蓋を噛み締める様に閉じ、残っていた涙を落とした。そしてもう一度瞳を開けると、醜さなどかけらも無い魔法の生き物がそこにいた。なめらかな肌、凛とした瞳、野生の躍動を持った身体。しかし、今の彼から受けるものは、悲しみ以外の何ものでもなかった。彼は自分の身体の下の小さな遺体に縋りつき、完全な静寂と同じ泣き声を洩らした。一切の音が失われていた。耳鳴りすら聞こえなかった。僕はあまりに激しく泣く彼と、あまりの静寂とに、僕自身が音を失ったのかと思った。およそ不可能など無い様に思えた彼は、全身の震えを押さえることすらままならず、嗚咽ひとつ洩らさないままそこに泣き崩れた。薄いシーツに指が食い込み、彼の痛みを表すかのようによじれる。
 一体、彼に泣く資格があるのだろうか。彼女を殺したのは、彼なのに。その死を泣く資格が何処にあるというのだ。彼女は死を知っていながら彼を受け入れた。その死を望んだ。けれどそれは、彼の苦しみを止める為にしたことなのだ。もし彼の苦痛が彼女の死以外で癒されるものなら、彼女は死ななくてすんだはずだ。
 急に僕の中に殺意が沸き起こった。彼女は死なずにすんだ。あいつが殺したんだ。あの獣が。やっぱり悪魔なんだ。神に見捨てられ、呪われた異形の獣。ふざけるな、おまえの涙なんか、価値が無い。あの森で、人を食ったくせに。その時も泣きながら食らったというのか。ならば今、ここで死ねばいい。彼女と共に。おまえの苦しみを受けて死んだ、その屍の上に息絶えればいい。この獣がやっていることには意味が無い。人を食らうことにも、オーパーツを殺すことにも、何ひとつ必然性が無い。彼女の死に諦めがつかない。その死すら、無意味だとしか思えない。どうして殺したんだ。理由も無いのに。どうして。一体彼女が何をしたというんだ。
 怒りが止められなくなる。頭痛が鼓動のように鳴り響き、思考がただ一つのものに集中する。手も足も関節が揺れてほとんど思い通りに動かない。視界は再び溢れ出した涙に歪み、長いこと沈黙していた耳には自分の不定期な呼吸と、奥歯のぶつかり合う音が響いた。
 意思の定まらない右手でポケットを探る。瞳は彼の姿を離さない。手の中にある何かを握り締めた。細長い棒のような物。何かはわからない、どうでもいい。あの獣の首に、これを突き立ててやる。おまえみたいな獣が、ここにいること自体間違ってるんだ。全部終わらせてやる。許さない。絶対許さない。僕が立ち上がってふらふらと足を進めても、彼は僕に全く興味を示さずにいる。ただ僕は自分の無力さと、彼女を苦しめ続けてきたあの大人達に対する憤慨を、今、目の前にいる獣に一身にかぶせていた。
 ほんの少し、まわりを見渡すだけの心の余裕などかけらも持ち合わせていなかった。僕はたかが十一の子供だった。彼女らの腕の中でミルクのかわりに痛ましい涙を呑み、彼らの手で人を人として扱わないことに対する罪悪感を、溺れるほどの水で薄められてきた。それが僕の両親だった。僕はそのどちらを捨てることも、愛することも出来なかった。だから僕は自分の不甲斐無さに目を瞑り、そのどちらでもないこの人外の獣を真っ黒な罪で覆ったのだ。その暗闇は彼の姿を隠し、僕の中の殺意の戸惑いすら塗り潰した。
 今、僕は彼を見下ろすほど近くにいる。右手を高々と振り上げ、その首めがけて腕の力を抜く。ただそれだけで、僕は僕が服従してきたすべての罪悪を断ち切るような、そんな錯覚さえ覚えていた。彼はまだ泣くことをやめようとしない。変わり果てた彼女の遺体を放そうとしない。やめろ。その涙は僕のものだ。彼女がいなくなって、泣くのは僕ひとりだ。彼女を失ったのは僕ひとりだ。他の誰も、彼女を自分の中に人間として住まわせていた者はいないのだから。だから僕がこれを。この獣を。
 ラミィ
 どんな苦しみであれ、共通するのはこの涙だけだね。僕は彼女の死にも、この獣の死にも涙を流す。この美しい銀の獣を、この手で殺すことの苦痛。けれど、こぼれる涙は彼女の死に流したものと同じなんだ。
 そして。
 僕は振り上げた右手を下ろした。ぷつりと皮膚を破る感触が手に伝わってくる。彼の身体が一瞬、強張ったように感じた。僕の手の中の凶器は、彼の体に、ほんのわずかに埋まっている。右手の小指の側面が彼の首に触れていた。僕の手を濡らす血は、けれど僕らのそれのように赤い色をしていなかった。僕は泣いていた。そして彼も。けれど聞こえるのはやはり、僕の涙の音だけだった。
 誰かに縋りついて泣きたかった。けれど僕の傍に、今生きているのは目の前のこの獣だけだ。こんなに、心から何かを憎んだのは初めてだった。誰かの為に泣いたのも初めてだった。
 僕はまだ十一だった。けれど獣を殺すくらいのことはできた。神に呪われた美しい銀の狼。僕ら人からも、神からも異形とされた獣は、こともあろうに自分らと似たような形をした人間をその歯で噛みちぎり、血を嘗めあげ、骨までも砕き、その腹に飲み下したのだ。だめだ、吐き気がする。この手が、彼の体に触れているだけで、自分までがそれをしたかのような錯覚に陥る。これは恐怖と嫌悪だ。背中に、ぞくぞくと言いようのない寒気が走る。気持ち悪い。銀と暗褐色の混じった異様な体液が彼の体を伝わり、その下の遺体に滴り落ちる。銀の獣は、液体を彼女の体からその掌で拭き取ろうとした。その手は震え、自分の血をまるで毒を振り払うかのように、彼自身の手からも拭い去ろうとした。自分の血を見て気がふれたようにシーツに手をなすりつけ、また滴り落ちてくるそれを彼女の体から拭った。拭いながら、彼は泣くことをやめなかった。いつまででも涙を流し続けるんじゃないかと思えた。彼はその手と涙とで、彼女をいとおしみ続けた。
 人を食らい、彼女を殺し、そして彼はまたそれを繰り返すのだろう。けれど彼は。……彼の姿は…まるで、ヒトのように見えた。
 僕にはヒト殺しはできなかった。そのとき、僕はまだ十一だった。


 次の日の朝、ペルヴァンシの亡骸は発見され、僕らの家は長い騒動から解放された。僕はずっとラミィと一緒にいた。大人達はレジーミラーをのがしたことの口惜しさに憤慨し、レーナル氏は彼女の遺体を前に涙を流し悲痛の声をあげた。
「彼女から、愛してると伝えて欲しいと頼まれました。…あなたは彼女を愛していたんですか?」
 泣き沈む彼の後姿にそう告げた。答えが欲しくて口にした言葉ではなかった。だから、返事がなくとも僕は何も感じなかった。
 けれど彼女は死んでしまった。死ぬことでしか答えを出すことが出来なかったのだろうか。それは僕らも同じだろうか。いや、彼女らオーパーツは僕達と同じように生そのものであっても、僕らよりも遥かに死に近しいのだ。そして、それを強要しているのは、いつも僕らなのだから。


 やがて彼女がいないということ以外、何も変わらない日々がやってくる。毎日を家での仕事に明け暮れ、時間があるときにはまたラミィと森へ行く。あれからの日々、僕はずっと同じことを考えてた。
 レーナル氏は確かに僕らの持っていないものを手にした。彼女を愛すること。自分一人の中から生み出し、そして共存をした。けれどやっと手に入れたそれは、こわれていて。こわれた愛情を両手に抱えた僕らは、一体どうすればいいんだろう。なぜそれはこわれてしまったんだろう。彼女らがこわれていたから。その存在が、僕らを狂わせた。それは愛らしさや誘惑といったものではなく、僕らがこわした彼女らの傷口が…それが僕らの理性までもこわしてしまった。僕らはいつも自分たちが犯した罪を棚に上げて、彼女らのその傷口を責めるのだ。
 彼女と彼と、あの狼の物語は。オーパーツのとりとめもない一生と、それを愛することの愚かしさ、そして銀の狼のおぞましい生態を伝えていくのだろう。
 ペルヴァンシ。君はいつも言っていたね。大丈夫だ、と。どうしてそれを口癖にしていたのか…ただね、僕は君が大丈夫だなんて言える訳がないのを、知っていたはずなんだ。君の望んでいた幸福が労りややさしさであったのなら、きっと僕だけがそれを与えることができたはずなのに。でも僕は、僕には、君に救いをもたらすことはできなかった。だって僕は君の望んだそれを、いつも与えていたんだよ。けれど僕は、こわれてしまっていて。オーパーツにもセルティクスにもなれない僕は、君達を傷つける時だけあの大人達と同じものの名を冠し、けれど君らに手を差し伸べるときには、決してその名を頂くことは出来なかった。僕の手はもう、汚れてしまっていた。それは罪悪や非力のためではなく、ただ僕はここで育つことによって、彼女らの求めるものを与える資格を失くしてしまっていた。
 僕は彼女らと同じ"服従するもの"だった。
 僕の手は もう 虐げられた者のそれでしかないんだ。

 ペルヴァンシ
 君の大丈夫が聞きたい