僕らはいったい、生きていくのにどれほどのものを必要としているだろう。幸せであるとか、安らぎであるとか、そういったものは生活の中に欠片でも見出すことができれば、この心を満たすに足るのだろうか。悲しみや痛みがそれを上回ってしまったとき、僕らは幸福を失くしてしまうだろうか。もしもそれが、僅かなひかりをけしてしまうことなく、重苦しい暗闇の中で唯一の存在を示しつづけるなら。年を重ねる度に降り積もっていくかなしみの中でも、僕とラミィは、ずっとずっと、幸せの意味を知らずに、幸福の中で生きていけるんだろうと思う。


 家での僕らの暮らしは相変わらずだった。使役と従属。緩慢な鬱屈と気怠さを、非道くせかすように運び去っていく時間の流れ。そんな空気を喉の奥に送り続けてきた僕らにとって、その倦怠を含んだ空気は自分たちの心の空洞にぴたりと相俟ってこの肺を満たした。年輪をつくるようにこの身に刻まれてきた呼吸の跡は、この家で生きるための鰓となって僕らの内に息吹を送った。たとえばそれは、敏感になっていくからだとこころの襞を無遠慮に撫でまわす大人達の常識から、苦しみや痛みを感じないでいるための本能であったかもしれない。僕の選んだ幸せは、甘い灰色に染まる身を、より薄暗いそれに浸して同類の権利を得、それでいながら自分だけの――欺瞞のような色の明るさを確かめながら生きていく。そういうものだったと、この頃既に、理解していたと思う。
 単純なる白に身を包んでいた頃の僕らの幸せをずっと形作ってきた幼さが持つ無知は、もうそれを装うことすら困難になり始めていた。それは僕らに――幼いはずの彼女にいつか必ずくるそのときが、確実に近付いていることの証でもあった。いつ言われるかと恐れながら生きるわけでもない。無事に終わった一日を、何かに感謝するでもない。どちらかといえば、むしろ逃れられないそれに向かって自ら歩みを進めてきたような気さえした。抗う為の道を模索することもなかった僕らの目前には、当然それは用意されているのだ。それを思えば、僕らが僕らのささやかな平穏を慈しむことが出来た時間は、とてもとても、長かったかもしれない。
 ぐるぐると薇を巻いた人形は、想像よりもずっと長くその愛らしい動作を披露し、僕らの日々を彩った。たとえやがて必ず止まるものだとしても、乱暴な腕がそれを壊してしまうかもしれないと知っていたとしても、そのいとおしさは、なにひとつ失われるものではなかったから。
 ひとの苦しみを生業とするこの家が僕らのたったひとつの我が家でも、ラミィとの時間は何に侵されることなく、不可侵のちいさな幸せのあかりを湛えたまま、いつもそこに灯っていた。額を寄せると、ふれていない肌にも暖かさを感じた。幼いということは、それだけで幸せだった。
 言うまでもなく僕らはこの家でいちばんの年少だった。それもまた、僕らのゆりかごを守るひとつの要因だったろう。そうしてここでのおよそ十年間、若さが持つはずの鮮やかな生気とは無縁だった館の中に、今日新しいいのちが生まれたことは、僕が知る限り唯一の喜びだった。無論、それは僕らのではなく、ここの主達の中に見出された恐ろしいほど美しい感情。大人たちの純真な喜びは、僕にはむしろざらざらとした言い様のない感触を与えた。頬がむず痒いような、妙な感覚。屈託の無い笑みほどおぞましくもある彼ら。そしてもしかすると、自分の眦に宿る、ほんのわずかな羨望を帯びた…嫉妬。
 ともかくも、唯一たる父親――僕らは、子を成すのに母親を必要としない――から誕生したその赤ん坊は、この家に澄んだ産声を響かせた。部屋の隅からとおりがかりのような姿でそれを見ていた僕らの前で、大人たちが明るい笑顔を浮かべ、純粋な誕生を祝っている。当然僕らは、その輪の中に入ろうなんて思いもしなかった。できることといえば、窓枠に区切られたようなその光景をただ呆然と眺めることぐらいだ。この家ではじめてみる、僕らよりももっと脆く、繊弱な存在。いかなるやさしさも横暴も、受け入れることしかできないあの小さないのち。
 この家で育ついのちは皆、僕や彼女らのように浅く細かくきざまれ傷つけられ、その肉の中にいのちを隠して生きていくのだろうか。あの白い、幼い柔肌に灰色を吸い込むようにして
 …いや、ちがう。きっとあの子は、僕らとは違う。あの赤ん坊は、あちら側の人間だ。
 僕はこころのどこかで、彼らが僕ら――ラミィたちオーパーツや僕を虐げるような物腰でいるのは、僕らが弱者であるからだと思っていた。振りかざす腕は、脆くつたないいのちに対する苛立ちの現れだと。
 だから子供が生まれることを最初に知ったとき、僕はとても想像ができなかった。この館の人間が、その弱者の誕生を喜び、祝うだなんて。けれど現実に、その子供の誕生は祝福され、誰一人としてそれを非難するものなどいやしない。あの子供と僕の、何が違うんだろう。彼女らとあの子の、何が違うというんだろう。わかりきった答えを僕は頭の中から掻き消した。
「あの子、おとうさんとおなじ黒髪だわ」
 僕の傍らで同じように彼らを眺めていたラミィが、ふとそんなことを言った。僕らセルティクスは世界樹という存在との掛け合わせで生まれてくる為、容姿や特徴が実父と似通っていないことも多い。言われて改めて見た赤ん坊の産毛は、それを撫でる父親の手の下で、確かに薄い黒の色をしていた。愛情を得るための象徴のように肉親とおなじいろかたちをした姿は、僕の中のなんともいえない感情を啄んだ。その感情から逃れるように、僕は視界をそのままに、焦点だけを彼らからずらす。すぐ傍で、ラミィの金色の髪がゆれた。
「ルーンのパパは、ルーンに似ていなかったのにね」
 そう、僕は自分の親を、おそらくは覚えていた。


 それは眠りにつけない夜や、互いの声を聞きたくなったとき、子守唄か御伽噺をするように謡った物語だった。僕のかたすみにある、僕の家族の物語。
 僕の生は、すべてこの場所で芽吹いた。この家に連れて来られ、ラミィと会い、人を知り、仕事を学び、生きる術を身に付けたここから始まった。だから、それ以前の曖昧な記憶をかたちどったこの物語は、僕にとって内面のものではなく、あくまでも事実を思い浮かべ語るだけのかたちに脚色した挿話だ。大人たちから愛らしい物語のひとつも聞かされたことの無い僕らにとって、それはとても都合のいい――悲しみもいらだちも、失くしたものに対する口惜しさも伴わない、純粋な御伽噺だった。ひどく深く繰り返した一言一句は、既に事実を確かめるための冷たさを失っていた。与り知らぬところで僕らの胸を温める、その役割を満たすためだけに僕は記憶の中で体験する温もりを抽出し夢物語をつくりあげていった。すべてが事実であっても、どれほどに捏造が加わっても、感情がそれらを書き直していったとしても、それは純然たる真実の物語であった。
 劇的な展開も、感情的な叫びもない。縋るほどの強さももたない。ただゆったりとした空気の肌触り。それは僕の記憶の根底まで遡る。暖かな暖炉と、談笑する声。僕を囲む兄弟――兄達。そこに現れる僕の肉親の髪は、僕と同じ金色か、父と同じ気品ある赤の色をしていた。僕のまわりはいつもその兄弟達でいっぱいで、視線をめぐらすと皆が僕を見て笑い、口々に僕の名を呼んだ。僕が返事をすると、彼らの手がちいさな僕の頭を撫でた。
 まるで僕やオーパーツたちが夢見る、幸福で平穏な家族と日常そのもののようだった。記憶の中の色彩は妙に単調で、部屋はいつも暖炉の火と同じ色をしていた。セピアの灯り、褐色の木の床、深い赤の毛布…暖かさを象徴する数々の装飾。薄暗いと言えるほどの質素な灯りの中で、それでもなにもかもが、幸福だけを帯びて僕らを包む。酷く非現実的な、家族の光景だった。
 兄達は皆とてもやさしかった。なにより僕に向ける笑顔の中で細める眼差しが、すべてを安らぎへと導いた。いったい何人の兄がいたろう。その記憶で、僕はひとりになったためしがない。たよりなく歩き始めた頃の僕は、どこにいくときも誰かと一緒だったし、どこにいっても必ず誰かが迎えてくれた。部屋はどれも暖かく、同じ暖炉の色を湛えていた。反芻するうちにそれら部屋の数の少なさや、他の場所の記憶の欠如にも気付いたが、僕のこの物語にはとても都合が良かった。夢物語の創作に、専念できたからだ。皆で遊んだ手書きのカードや、ちょっとした言葉遊びの数々。手作りの菓子に、父の語る世界中の物語。ちいさな生活を彩る、人の温かさがそこにあった。
 そうして繰り返し語られる物語の中にひとつ、ラミィのいちばんのお気に入りがあった。記憶の中のやさしい兄達は、ときにひとりで、ときには僕を膝に抱きながら、静かな部屋でそっとなにかに浸ることがあった。そのときの彼らは皆一様に慈愛の表情を浮かべ、たわやかに緩めた唇に、すこしのせつなさを含んだ笑みをのせていた。僕はその時間がとても好きだった。幼い僕はいつもその間、じっと彼らの表情を追ったり、彼らを真似て目を閉じたりした。とても不思議な時間だった。僕を抱く兄のあたたかな体温を背に感じながら聞く、ささやくようなやさしい旋律。それは兄自身の声や、きいたことのない、誰かの呟きのこともあった。目を閉じると僕の耳にはときどきそのささやきが聞こえた。まるで誰かのやさしい手が僕の項を包み、耳の奥に唇を当てるような趣だった。僕がこの不思議な声のことを兄たちに尋ねると、彼らは嬉しそうに答えた。「神様がルーンにおねだりしてるのさ。」
 それを聞いた幼い僕は、じゃあなにをあげようかと頭を捻った。悩んだ挙句、僕はありったけの卵と砂糖とミルクでテーブルを埋め尽くした。それを見て驚いた兄たちに一体どうしたんだいと聞かれて、僕は満面の笑顔で説明した。今度僕がおねだりされたら、これでお菓子を作るの。それで時間をかけて卵を溶いている間に、ほんとに欲しいものをちゃんと聞いてみようと思うんだ。目を丸くした兄たちは、顔を見合わせたあと大笑いした。僕は皆が大賛成してくれたのだと思って、一緒に笑った。それから随分長い間、家のいたるところに卵が置かれるようになった。
 ほんとうに平穏な日々。けれど当然、物語は長くは続かない。現実の僕は、今そこにいないのだから。


 ある日、父と兄達は全員揃って僕を呼んだ。僕は何を勘繰るわけも無く、喜んで家族の輪の中に入った。兄のひとりが僕を膝に乗せ、皆がそれを囲む。いつもの笑顔の中にどこかかなしみの色が混じる。幼い僕には、まだそれを感じ取ることはできなかった。変わらない僕の様子に、何人かが寂しげに笑んだ。
 ふと、父が皆を促す言葉を口にした。すると兄達は、そっと目を閉じて耳をすませた。しんと静まり返った様子に、僕は表情をとめてまわりを見渡す。――それは、ひとりひとりであれば、幾度もみたことのあるあの光景だった。
 どこか荘厳な感情を醸すその場で、僕はいつもそうするように彼らを真似て目を閉じることが出来なかった。どうしてか不安をかきたてる皆の様子に、僕は思わず僕を抱いている兄の手を握った。兄はその手ごと僕をきつく抱き締めた。
 その腕の中で僕はふたたびあの声を聞いた。目を閉じるまでもなく、そのはっきりとした音は僕の脳裏に響き渡った。けして行き過ぎた喧騒でも、怒鳴り声でもなく、明確でありながら聞き逃さぬようにと耳をすまさせるような、たくさんの、声。――それに導かれるように天を仰いだ僕の目に、言葉では表すことの出来ない光景が映った。溢れ出す感情に、涙が零れなかったことのほうが不思議なくらいだった。目を奪われた僕は、手をのばすかわりに兄の手をもっときつく握った。兄は僕を抱え直すように胸に抱き締め、見上げる僕の耳元に震える声を落とした。ルーン、と。
 それが、あの部屋と家族の最後の記憶だった。思いを馳せ、繰り返し語るうちに事実かどうかわからなくなった物語は、最後になって舞台を外の世界へと移す。初めてみる世界はとても美しかった。空の青とその下に拡がる緑の調和した世界は、僕の不安を塗潰し好奇心でいっぱいにした。父は目に映る光景に気をとられっぱなしの僕の手を引いて、随分長い間何処かへ向かって歩いていった。
 空はまだまだ深い青を湛えて頭上を埋め尽くしていた。どれくらい歩いたろう。初めてその世界に出た僕には、距離感や方向など、とてもわかるわけがない。父自身、目的の地があって歩いていたわけではないかもしれない。前触れもなくゆっくりと歩みを止めたその場所は、変わらず空の青と木々の緑だけを湛える草原だった。黙したまま立ち止まった父を、僕は天を仰ぐように見上げる。唇を引き締めた父は、視線を合わせるように僕の正面に屈んだ。大きな手が、僕の腕を包み込む。
「…こわいかい?」
 なにを恐れると言うのだろう。はじめてみたこの世界を?僕を捕らえるその手を?それとも、恐れるべきことを予兆するその言葉を…?
 いいえ父さん、恐れているのはあなたの方です。だってあなたは、こんなにふるえながら僕にしがみついてる。
「ルーン、ここからはひとりでいかなくちゃいけないんだ」
 父の言葉は、すべてに頷くにはあまりに足りないものが多過ぎた。まして、やっと言葉を解し始めた僕に本当に理解すべき部分がどうして伝わるだろう。僕はただ黙ってみつめていた。
「大丈夫。神様はちゃんとおまえを愛してる。…もしおまえに、おまえ自身の幸せを分かち合いたいと思う誰かが出来たら、約束をしてあげなさい。生きていくことの幸福を、分け合うことを。それから、神様に…自分たちの幸せを伝えなさい。大丈夫、神様の名を、呼ぶことは無い。呼ばずとも、皆がおまえをみてるからね。おまえの声を心待ちにしてる」
 父はそう言い終わるや、震える腕に僕を抱いた。嗚咽を堪える胸の中に。――ああ。何かに似ていると思っていた。あの感触。あの力強さ。レーナル氏の腕と、同じだったのかもしれない。
 記憶の中の僕は、父の肩口で頬に体温を感じながら目を閉じた。穏やかな風が僕の額をくすぐる。再び目を開き映し出された美しい世界は、けれどもうあのセピアの色ではなかった。
「…ルーン、大丈夫。神様が見守っていてくださる。」
 でも 父さんは、僕を見ていてはくれないんだね


 とても曖昧だと。そう思いながら、僕は話を終えた。何百回目かの語りを終えた僕は、いつになくその余韻に侵されていた。物語はいつもここで終わる。実際の僕は、その後言われるまま来た方に背を向けひとり歩きつづけた。まっすぐに歩けていたのかどうか。導き手のない歩みは、それでもひたすら地を踏みしめた。そうして空の色も重く薄暗くなり、小さな林をいくつか抜けた頃。民家のあるあたりにたどりついた僕は、そこで人に会い保護された。随分非道い顔をしていたらしい。その人は役所に行く前に、僕に温かいスープをくれた。それは火傷するほど熱かったのに、なぜか僕の体を温めてはくれなかった。
 僕にとってこれら物語の中に実感のある部分はほとんどない。繰り返すほどに心地よい御伽噺をかたちどったそれは、真実に忠実である意味などなかった。あの部屋の装飾、単調な色合い、家族の温もり。こまかなやりとりや言葉はもちろん、物語の流れのほとんどが、その感覚や感情がつくりあげた創作であることは繰り返すまでもない。そもそも、当時の年齢でこれだけのことを覚えているわけがないのだ。実際僕には、父の面影もたくさんの兄たちの名も、ひとつとして思い出すことができなかった。ここに連れて来られた頃の僕は覚えなければならないことで毎日が精一杯で、現実を前にして、欠片ほどの記憶に浸る暇などどこにもありはしなかったのだ。
 そうして僕は、この家でラミィやほかのオーパーツたちと出会った。やがて仕事をこなし家の意味を知るうち、僕ははじめて人というものを理解していった。なによりも、それは痛みだった。自分自身の、身をもって感じるそれと、人が痛みに直面したときのそれとは、これほどに違うのかと思った。僕はある痛みを暗示によって無視し、ある痛みをまるで自分のもののように感じ、また別のそれを、想像することの出来ない人間の憐れで残酷な行動を、目を逸らすこともせずみつめつづけた。仕事に追われる日々。渇き埋もれていく記憶。
 それでも、消えゆくはずのすべてを僕から掘り起こしたのは、ペルヴァンシの口癖だった。聞く度、それは記憶の中から父の最後の言葉を掘り起こした。僕にとって、彼女は父よりもずっとたいせつな存在だった。彼女はずっと僕の傍にいた。苦しみにたえられないとき、その腕に抱かれ幾度も啜り泣きを聞いた。突然舞い込んだ幸福の欠片を、我が事の用に喜んだ。裏切りも不理解も、同じに涙した。僕は家族の記憶が与える温もりより、彼女らのかなしみの方がずっとたいせつだった。
 ペルヴァンシの微笑が瞼のうちがわに浮かび上がってくる。死を迎える歩みの前に、僕に向けられたあのやさしさがそっと降り注いでくる。
 愛情は僕らを幸せにしてくれるものだと。そういうものだと、知っていた頃。彼女の憂いを含んだ仄暗い瞳や、あの口癖を思い起こし、僕の中であまりに純粋な疑問がふと頭を擡げた。
 愛してる。それは幸せのためのおまじないのようなものだと、ペルヴァンシは言っていた。その魔法が、その幸せが、彼女には届いていたんだろうか。僕はレーナル氏が彼女に紡ぐその言葉を、幾度となく聞いていた。きっと、ペルヴァンシが聞いたのと同じだけのその心を、僕も目の当たりにしてきたと思う。彼の愛情は、彼女にふれる手となり、いとおしさに細められる眼差しとなりそこにあった。
 だからほんとうは、こんな疑問には意味がなかった。意味なんかあってはいけなかった。愛されたはずの彼女が、幸せかどうかだなんて。
 それは彼女の物語のすべてをかたちづくるあたたかさの源泉である筈なんだ。だって彼は、その言葉をあれほど繰り返していたじゃないか。僕らの知る唯一の愛のかたちをとって。疑いようのない事実として。どんなに彼女が痛み苦しんだとしても、彼女自身がそれを受け入れ彼に笑みを残したのなら、それはもう僕の巡らす愚考など及びも付かないものだ。だのに、なぜ僕の中のわだかまりが消えないんだろう。不手際な婉曲を描く疑問符のライン。それは僕にとって熱く溶けない氷の固まりのようでもあり、喉にあるそのせつない違和感に耐えるたび、僕は丸い痛みと息苦しさを覚えた。――ああ。どうして僕は、こんなふうに君を思い出すんだろう。ペルヴァンシ。
 まるで棘のような胸のなにかは、僕の表情の中に非道く染みる、まばたきを促した。視界に薄暗い幕が下りている間に、僕は温もりを持つ隣の彼女の方へ視線をやる。僕の掌の中のラミィは、変わらずそこにいた。僕がいつもこうして思索に耽ってしまうときに、彼女の心は何処にあるのだろう。無垢な横顔は、どんなときも僕の隣にあった。願えば必ずそこに。意識せずとも、あたりまえのように。金色のゆるやかな波を頬に細くちらしながら佇む彼女の横顔は、透き通るように奇麗で、どんな迷いも感じられなかった。
「…ラミィ」
 口を噤むことに慣れてしまった僕らは、意味のある問答をすることに奇妙な違和感を感じる事がよくあった。たぶんこのときの僕も。けれど、ひとたび饒舌なまでに語った僕の舌は、水を含んでまわりやすくなっていたかもしれない。
「レーナルさんは。彼女を、愛していたんだろうか」
 疑問符は、はっきりと語尾をあげるほどには存在しなかった。僕は彼女の顔を見ることもせず、ただじっと、待つ。なんの表情も浮かべず、ひとすじの変化もなしにそこにある彼女の横顔は、ちらちらと窓からの空気にゆれる金色の糸の間で、この上ない沈黙を守っていた。
 言葉は、僕らの間では多くの場合独白の意味ももった呟きだった。そのままこの唇がいつものように答を待たずゆるりと閉じても、そんな時間として受け入れたろう。きっと、深呼吸を禁じられるような、丸いものを飲み込んだまま。
 ただ、どうしてか、消し難い息苦しさがあった。いつもなら灰色の鰓の奥に飲み込んできたはずのそれを、ならば僕はあえてそこに残しておこうと思い、もしかしたら、このまま答えがないことを受け入れようとしたとき
「きっと。わたしたちとおなじじゃないのかな」
 風にそよぐ、小さくて明瞭な音が、窓の外の空気に流れた。
 彼女の明確な言葉は、その抑揚と意味の両方に、最初だけ意外という感情を抱かせ――それから不自然なほどまっすぐ、僕の胸にとどいた。ずっと長いこと僕がわからずに棘にしていた真実が、するりとその覆いを取り払い、縋るように僕の腕の中へと収まったかのようだった。幾度も巡らせ、幾度も導き出した筈のどの答えよりも、それはしっくりと、僕の中に沁みた。
 答えを口にしたラミィは、変わらずあどけない面持ちで窓の外を見ている。つないだままの指先。頼りなげにからまる彼女の膚の感触を、僕はたぶん、はじめて意識して指先でくゆらせた。
 そうして、僕はうなずく変わりに瞼を伏せる。そっと落ちる瞬きの動きは、僕の呼吸を止めた。
「悲しいね」
 つぶやいた音は、僕の唇にふれ、穏やかに風にさらわれた。
 あまりにちかくにあったその答は、僕らふたりの関係に、長く住みついていたものだった。かぎりなく大切だという感情を、愛情といわれればただそう思い、けれど愛しているかと問われればそれは肯定の答を導くことはなかった。僕らの間には小さな幸せをつくり、彼がその胸を熱くしたなにより真実であるはずの鼓動は、どちらも意味だけが曖昧な愛情と無知の子を産み落した。非道く明確で、かなしいくらいただそれだけの真実。
 涙が出るような悲しみではなかった。不安やさみしさに震えるようなものでもなかった。ただ、そこには唯一僕らの知ることのできる真実があった。


 それからひと月ほどたった、ある日の夜。僕は腕の中で眠っていたラミィに揺り起こされた。今まで彼女が僕よりはやく起きたためしがなかったので、僕は寝坊したのかと思ってあわてて目をあけた。けれどそこに映ったのは、未だ月が控えめに照らし出す程度の淡い金の髪と白い頬の色だった。僕を覗き込むラミィの心配そうな表情が、すぐ目の前にある。様子の違うラミィに、どうしたの、と尋ねようとして、僕は自分の舌が切れそうなほど非道く渇いていることに気付いた。
「こわい夢みたの…?」
 それは僕ではなく、ラミィの声だった。小さな細い指先が、そっと僕の頬を撫でている。僕はわけがわからず、瞳をあらぬ方へ彷徨わせた。
「…いや、…僕…」
 思わずおさえた首筋は、びっしょりと汗をかいていた。肺は空気を求めているのに、額からのどのあたりが非道く重く、それらを送り込むことを拒否しているかのようだ。どことなく、全身が疲れきっている。…ほんとうに、なにか悪い夢でも見たのだろうか。
「ごめん起こしちゃったね」
 重苦しい吐息で、平静を装いながらそう告げた。ぐったりとしたからだはもどかしく、僕はそれをふりはらうように膝元に落ちていた毛布を取り直した。ほら、と促す僕の手は、けれどラミィの落ち込んだ表情に止まった。
「…あのね」
 めずらしく――いや、たぶんはじめて逡巡して、彼女は波打つ髪の隙間からやっとの様子で声を出した。
「ルーンね、ときどき寝てるとき、くるしそうなの」
 なんのことだろう、と。一瞬理解できなかったそれは、何よりも真実だけを紡ぐ彼女の言葉でそろそろとほどかれながら、ゆっくり響いてきた。淡い月光だけが、一生懸命に話す彼女を守っている。
「そういうとき、いつもあたしのことぎゅってするから、あたしそのままルーンのこと起こさないでいたの。…でも、今日はあんまり痛そうだったから」
 僕に話そうか、随分悩んだのだろう。ためらいがちな瞳が、膝の上のやり場のない指先を追っている。
 意気のない様子に戸惑いながら、僕は寂しそうな彼女を慰めるべきなのか迷った。膝をあわせるかたちで目の前にいる彼女は、手をのばせばすぐふれることができる。でも、どんなふうに?そもそも、うなされる心当たりなんて。
「どこか、いたいの…?」
 惑うようにか細い労わりに、沈黙していた喉がはっと息を呑んだ。僕の脳裏に夢の中の場面が甦ってくる。ラミィが心配そうに尋ねるその言葉は、ペルヴァンシがあのとき“彼”になげかけたものと同じだった。痛み…?
「僕は…」
 誤魔化してしまうような曖昧な言い訳が唇を蠢かせたが、音にまでできなかった。頭の中が再生された情景でいっぱいで、彼女を安心させるための言葉がうまくつくれない。知らずからだが揺れる。大きく息をついたせいだと、自分に言い聞かせる。まともな言葉を言おうとするたびに、どうしようもない嫌悪感が全身を襲った。なんの…嫌悪。他人行儀な僕の疑問符に、からだの方が答えをひらいた。脳裏を埋め尽くす蒼白い部屋。変わり果てた遺体。美しい銀の獣。異様な体液が、記憶の淵を伝って僕の手を濡らす。
「ルーン」
 額や頬を汗が流れていくのを自覚しながら、僕はそれを目の当たりにして泣きそうになるラミィの声に縋った。彼女が紡ぐ僕の名は、魔法のように僕に涼やかな呼吸を分けてくれる。僕は渇いた唇を舐めて、そこから夜気を吸い込んだ。急に冷え込んだ冷たい汗が、僕にいくらか正気を呼び戻した。ペルヴァンシを見届けたときと同じあの蒼白い空気が、いまの僕を包んでいる。あのかなしい冷たい色が。でも、今、僕の目の前には。
「ラミィ」
 僕は彼女の呼びかけに応えるように名を綴った。きっと僕がいちばんたくさん口にしたその音は、呼びかけた僕自身を混迷した記憶から彼女の方へと引き戻した。からだを小さくまるめ視線を落としたまま、僕は小さな舌で何度も唇を舐めた。
「ラミィは…僕を軽蔑してない?」
 ラミィは意味がわからないといったように、頭を振った。僕を思いやる彼女は、まして軽蔑など思いもしないだろう。それでも僕は、なんの罪もない彼女をまるで責め立てるように続ける。
「ペルヴァンシが死んでしまったのは、レジーミラーのせいだと思ってる?」
 かすかにゆがむ鈴のような声が、わかんないよ、とだけ言い、彼女はそれ以上否定することも放棄して僕の身を案じた。小さな手が僕の手をとろうとする。なのに僕は糾弾を止めない。
「あの銀の狼を、恐ろしい、人食いの獣だと?」
 今にも泣き出してしまいそうな彼女の表情が目に写って、思わず僕の涙腺を熱くした。ごめんラミィ。なんで僕は、君の労わりを蝕むようなことを。
「でも…でもさラミィ、誰も、誰かを死なせたくなんかなかったんだよ。レーナルさんも、ペルヴァンシも。ただの人食いだって、気持ちが悪いって思ってたあの獣でさえ、ほんとは彼女を殺したくなかったんだ。あのとき、進んで人殺しをしようとしたのは僕だけだったんだ」
 吐き気を催すような罪悪感が告白を震わせた。この手に伝った、あの恐ろしい血の色。嫌悪。――自分に対する嫌悪。失望。どうにもできない感情の軋轢。
「あの部屋に、僕以外の殺意はなかったんだよ」
 最後は涙に咽こんで、僕は、ラミィの前で泣き出した。それは発露としか言い様もなく、僕はただそこに泣き崩れた。両腕が非道くおぞましく、重く、落ちた。
 泣き出してしまった僕を前にしてしまう彼女への配慮など、もう思うことができなかった。僕もラミィも、今まで互いの前で涙をこぼしたことがなかった。だから、僕はラミィを慰めたこともなくて。重荷のような身を彼女の前に投げ出して、僕は自分すら持て余して泣いた。
 ――けれど彼女は、きっと僕がそうしたように、泣き止まない僕を腕に抱いてくれた。静かな冷たい手で、僕の熱く赤らんだ頬を包んでくれた。何度も何度も、その頬を撫でてくれた。涙はもっと零れ出した。僕は初めて、慰められるときの心や、音や、吐息を知った。
 どんなかなしみが、これからの僕らを待ち受けているだろう。罪を犯す苦しみに、慣れてしまったと思い込んでいた僕はあまりに子供だった。僕らが虐げる彼女らは、ただそれで僕をせめたりしなかった。むしろ僕を、唯一の心の拠り所としていた。僕にはそれが僕をどれだけ救っていてくれたのかわからなかった。たいせつな、たいせつな僕の母姉たち。幼い僕とラミィに、僕らが渇望するだけの人に対するいとおしさを抱かせてくれた涙のひとつひとつ。かなしみは、けしてひとつじゃない。けれど、ひとつの言葉で伝えられるかなしみはひとつだけかもしれない。それでも、慰めがあることは、かなしみを伝えたときだけの賜り物なのかな。なら僕らは、感じるかなしみに涙を流すべきだ。どんなに苦しくとも、それに背を向けてはいけない。自分の痛ましい傷痕を幾度も覆い隠すうち、僕は僕自身が傷つけた誰かに対する罪悪に目を背けていたんだ。
 どうやってかなしめばいいのかわからずにいた幾多の出来事は、それでも消えることなく僕らの中にたくさん残っていた。それをひとつひとつ、紐解いていこう。ラミィといっしょに。
 何も言わない彼女の唇は、ただぼくらふたりのために静かに笑んだ。僕はへたくそな笑みを浮かべた。まるであの、銀の獣のようだと思った。
 その夜、僕らは延々と眠りに入るタイミングを逸しながら、体温を分け合った。寝床の上に座り込み、互いの頬を感じていた。もしかしたら、このまま互いの肩に頭を乗せて眠ったら、とても気持ちがいいかもしれないなんて考えながら、涙のせいでどこか震えそうになる呼吸の軌跡をいとおしく思った。
 明日の朝、寝坊しないようにしないと。おぼろげな月を見ながら、そんなことを思い浮かべたとき
「なんだ起きてたのか。」
 音も無くひらかれた扉に僕らは一瞬驚き、そして驚くまでもない見慣れた人影を見上げた。無造作に入り口に立った男は、廊下の明かりを背にして、僕らの膝元までとどく大きな影を落としている。彼はそちらをみやった僕の方に視線を向けながら手招いた。
「ちょうどいい、こっち来な」
 急にひかりを映した目に痛みを感じながら、僕は時計をみた。状況のせいかもう朝方近くかとおもっていたのに、針はまだ真夜中の位置を指していた。大人たちはまだまだ酒を酌み交わしている時間だ。肴が足りないか酒がきれるかして、僕を呼びに来たのだろう。僕は彼女の手の中でいつのまにか温かくなっていたそれをするりと抜いて、どこか気だるい腕を藁の中につき立ち上がった。すると男は、ああ、と気付いたように言い直した。
「ルーンじゃない、ラミィの方だ」
 僕の膝は、上に上がる必要すらなくそこに根をはった。ラミィは音もなく顔を上げた。