ほんとうなら、もっとはっきりと感情を表に出すべきだったんだろうか。たったいま僕が確かめたはずの感情の行き場は、あっけなく道を閉ざされ押しとどめられた。男の言葉が意味するものを僕らはきっとまちがいなく理解したのに、僕もラミィも、まるで何も知らない幼子のように振舞った。ラミィは言われるままに男に歩み寄った。中途半端に腰を上げた僕に気付いた男は、ちょうどいいと軽い食事を出すように言いつけた。彼に手を引かれたラミィは、廊下の冷たい床に素足をひたひたとあてて、人の気配のする部屋の方へ連れて行かれた。
 そのあとのことを具体的に語る意味があるだろうか。酒に酔った大人たちの中に、何人か知らない人間がいた。テーブルの横に立たされたラミィが話題の中心だった。愛想笑いも浮かべない彼女に、その男は酒精の混じった息で笑いかけた。金色のやわらかな髪に野卑な指が絡まる。彼女の後姿は、凛として綺麗だった。酒に酔った真っ赤な顔が大きく頷く。滑稽なくらい対照的な白い肌は、ただふうわりとそこに佇んでいた。ほんとうに、ただそれだけだった。理由など、いうまでもない。ここがどこだかを忘れないでいるうちは。当然、忘れるわけがないのだ。


 僕らは互い以外になにを生み出すこともできない。そして、僕らが生きていくことの道筋も、自ら進んでいくことはできない。僕らは――いや彼女らは、前だけを見せられ、あるときなにかが背を叩き、急にそこへ押し出される。僕らは寂しくて必死に足元にある宝物を探った。ときにそれは、互いの胸の小さなポケットにあった。安らぎが必要なときは額をあわせればよかった。でもこれからは、それがいちばん難しくなる。同じ気持ちで、いままでとおなじことをする。しなければいけない、でなきゃ僕らは生きていけない。でもそれがとても難しくなってしまう。
 ラミィは、その夜はあっさりと部屋に戻された。さきに寝床にもぐっていた僕に、ラミィはただいま、と告げた。そうして、いつものように言葉の前にあのね、とつけた。彼女は僕の腕の中におさまって、僕の、うん、という相槌を聞いてから続けた。
「あたしね、おしごとだって」
「うん」
「急だけど、信用できるひとなんだって」
「うん」
「晴れるかな、あったかいといいな。ほかのおうちにいくみたいなの」
「明日?」
「うん」
「じゃあはやく寝ないといけないね」
「もうおてんとさまが出ちゃうよ?」
 ラミィは毛布の中で笑った。つられるように僕も笑った。たぶん。


 次の日、少し寝坊した僕にケストナーさんは休みをくれた。それと改めてラミィの仕事のことを告げた。僕はただ頷いた。それから、やることはありますか、と尋ねた。彼は休みだろ、と答えた。
 さすがに森に行くことは許されなかった。昼過ぎまで好きにしていろと言われ、ぼくらはただ一緒に居た。心を寄せ合って。離れることがまるで罪悪であるかのように。一緒にいること以外何もしなかった。
 そばにいることは当然だった。言葉は何一つなかった。吐息さえも音を潜めた。まばたきをすると、睫が彼女の額にふれた。いっしょだということ以外、なにもかもを排除して、僕らはいつものように寄り添い、いつもよりずっといっしょにいた。
 言われていたとおり、昼を過ぎた頃ケストナーさんがラミィを呼びに来た。静寂の中に小さく扉の軋む音が響いても、僕らはなにも驚かなかった。食堂に行くように言われて、僕はまだラミィの手をひいてそちらに向かった。歩みを遅くするようなこともしなかった。なんの感慨も、生み出しようがなかった。
 昨晩見たあの男がいるのかと思っていたが、実際そこには知らない人間は誰もいなかった。ラミィは仕事をする場所まで、こちらの人間が連れていくらしい。あやすように彼女の頭をかいぐりながら、ケストナーさんは、客が言うとおりにすればいいとだけ言った。ラミィは彼を見上げながら、けれど特別頷きはしなかった。
 僕はいつも、仕事のときはラミィをおいてきた。あとでね、とか、じゃあ、とか、そんな言葉すらなしに仕事をすることも多かった。でもこのとき、僕の元を去るのはラミィだった。ラミィは振り向く必要のないよう、こちらに向いているうちに僕を瞳にとらえた。笑顔も、悲しみも、なにもなく、ただ僕の一番よくしっているラミィが、少しだけ僕に背を向けてそこにいた。
 そうして、僕らの子供時代は終わった。


 今にして思えば、それから彼女が仕事にでかけていた三日の間の僕は恐ろしい程にいつもと変わらなかった。ひとつめの夜、眠れるのだろうかと思っていた僕のまぶたは、そんな心配をよそにすんなりとその薄い幕を下ろした。夢は見なかった。ただ、ひとりだけの毛布の中は少し広く寒く、目覚めとともに喉の痛みを催した。
 翌朝、ケストナーさんがくれた休みも終わり僕はいつもの仕事にとりかかった。休んだ分溜まっていた皿や洗濯物に手をつけるだけで、午前中は終わってしまった。昼の料理の仕度を終え、いつものように自分の分をよそって調理場で昼食をすませようとしたとき、僕は珍しく大人たちに呼ばれ一緒にテーブルにつくことを許された。彼らと同じ食卓は、僕には少し高くて食べずらかった。
「てっきり塞ぎ込むかと思ったのにな。しっかりやってるじゃねぇか」
 寡黙に料理を口に運んでいた僕を眺めながら、正面に座っていた男がそう言ってきた。まわりの大人たちも、初めて同席している僕の方をしげしげと眺めている。
「まぁ、黙ってりゃ明後日には戻ってくんだ。いい子にしてたほうがいいよなぁ、ルーン」
 嫌味を含むわけでもないやんわりとした物言いを受けても、僕は一度上目遣いに見返すだけでまた食事にとりかかった。彼らの言う言葉はもっともなことばかりで、学ぶ必要もなかったからだ。特に言葉を返すこともない僕に最初から返答の期待などしていたわけでもなく、とうに食事をすませていた彼らは椅子の軋む音を響かせ立ち上がった。がやがやと喧騒に巻かれながら、変わらず自分の食事を続ける僕の周りには、テーブルに広がった皿の山だけが残った。
「何の問題もないか?」
 テーブルの向こう、少し遠い席にかけていたケストナーさんがそう問いかけてきた。食事の済んだ皿を適当に除け、煙草をふかしている。
「…はい」
 一旦皿の端に置きかけたスプーンを見て、彼は食いながらでいい、と付け足した。
「本当ならいつもどおり、最初は誰かが教えたあとで仕事に出すんだが…今回はちょっと勝手が違っちまった。ラミィには悪かったな」
 僕には相槌を打つほどのことも思いつかなかった。ただ淡々と、冷めはじめた食事を食べながら聞く。
「安心しろ、相手も慣れてるからそれなりにうまくやってるだろうさ。まだまだラミィには稼いでもらわないといけないしな」
 彼は短くなった煙草をテーブルに押し付けた。数滴の水が零れていたそこに火がふれると、シュ、という小さな音が響いた。そうしてケストナーさんは、最後の煙を肺から吐き出しながら、ゆっくりと息を付き、徐に言い始めた。
「ほら、おまえらがよく行く森の方に空き家があるだろう。丘の上にあるから見たことぐらいはあるんじゃないか?散策で行くにはちと遠いから、あまり知らんだろうが…あそこなら、人が近づくこともないしこっちの領域内だからな。いくらでかい話の便宜をはかってくれるとはいえ、こっちとしてもラミィはこれからの稼ぎ頭だ。無事戻ってきてもらいたいし、“見張り”を置かないかわり持ち帰り先はこちらの指定ってことになったんだ。――まぁしかし、どっちにしろ面倒な話だな」
 見張り、とは僕のことだ。行為の間に問題がおきないよう見張るのは、今でもかわらず僕の役目だった。ケストナーさんは言い終わると、テーブルに肘をつき僕の方をみやった。どこか目の端で見られるような笑みを浮かべている彼の視線に気づかぬふりをして、僕は手近にあった皿を重ねながら立ち上がった。
「ああ、ルーン」
「はい」
「賢いおまえのことだ、そんなことはないだろうが…間違っても行ったりするなよ。ばれたら俺がやばい。今回の話が全部ながれちまう」
 皿を集めていた手を一瞬止めて、僕は彼を見返した。彼はいらん心配か、と苦笑し再び煙草に火を点けた。僕は服従の意味も込めて、ただ頭を下げ調理場に戻った。


 一日は本当にあっというまに過ぎ去った。たっぷりと用意されていた仕事は、長いはずの孤独な時間を、都合良く蝕んだ。そうしてすべてを済ませ報告を終え、部屋に戻ってきたのは随分と夜も更けてからだった。普段よりもよほど疲れているはずだったが、僕は部屋の端にたたんであった毛布に手を伸ばすこともなく、ひとり窓辺に座り込んだ。
 空には月が輝いていた。高く天を飾る円はいつもより小さく、その分ひかりを強くして僕を照らしている。見上げる僕の瞳には、銀の色が映っているのだろうか。
 部屋の窓からは森の暗闇が臨めた。その近さが、逆に窓そのものを遠く思わせる。身に馴染んだ静寂は、僕に孤独な想像力を与えた。あの森の裾に、そっと佇むラミィを思い浮かべさせた。もちろん、目を閉じまた開いても、僕の傍らに彼女はいないし、森の方には人影ひとつ見当たらなかった。
 昼間聞かされたケストナーさんの言葉が、与り知らぬところで鳴り、響きだけを伝える鐘のように僕の視界を揺らしている。あの森の奥に、彼女はいるのだろうか。僕の手に届かない彼女が。彼女は泣いていないだろうか。かなしみに、寂しさに。この夜の冷気の中で、僕の掌なしに震えてはいないだろうか。こんな状況になって、僕は驚くほど彼女のことを知らなかった。僕がこの窓を飛び出し彼女の元へ走ったなら、いつもと同じ夜を迎えられるのだろうか。…そんなことはないんだ。ほんとうはわかってる。どうしたって、同じ夜だけはもうだめなんだ。ケストナーさんはそれをわかっていて、僕にあの話をしたんだ。たとえば僕が、彼女に会いにその場所まで辿り着いたとしても、結局は何もできないということ。なにもかもを棄て、投げ出し、彼女と逃げ出したとしても、いや、逃げ出すこと自体が無理なのだということ。だから「ばれない」範囲で好きにしろと、僕に彼女の居場所を伝えたのだろう。もちろん親切心だけとは考え難かった。おそらく彼の言葉を受け、僕が実際にどうするのかを知っておきたいのだ。誰にも――きっと僕ら自身にもわかっていない、ふたりの関係を。けれどそれがどんなものであろうと、ケストナーさんが明朝になってどんな結果を得ようと、僕にはどうでもいいことだった。耐えられてしまうことこそが耐え難い、この胸の空隙に比べたら。
 きっとこんな夜は、これから何百と迎えなければならないだろう。けれど不器用な僕らのかなしみは、あまり上手に溶けてはくれない。だからどんどんとその上に、区切りも待たずに降り積もってく。互いの涙を知れば、少しでも心を癒すに足るだろうか。でもね、そんなにたくさんはいえないんだ。ことばになるかなしみは、とても少ない。それに僕らは、ここで生きていかなきゃいけない。ここで生きる、ラミィの傍にいなきゃいけない。かなしみの内側に身を置く彼女を、受け入れなきゃいけない。僕が一生懸命導き出す生きるための道筋は、ひとつひとつ紡ぐたびに再び僕の手に絡まりつく。僕は、初めて零した涙がなんであったかもう覚えてない。一歩目を忘れてしまったから、いま立っている場所さえ曖昧になったのだろうか。それでも、何一つ止めてしまうわけにはいかなかった。どんな教訓や格言よりも、悲しみは僕らにたくさんを教えた。理由など無い。僕はもういちど、天の銀の灯りを見上げた。
 あいたいと思った。彼女に僕を、会わせてあげなきゃと、思った。


 霜が降りてきそうな、夜の冷たい風を聞きながら僕は彼女の方へと走った。昼間の暖かさからは想像できない冷気が、僕の肺を冷やしていく。家から森までの、あまりに遮るもののない草原を駆け抜けてしまえば、もうみつかる心配などなかった。起伏の激しい山道は僕から体力を奪い去ったが、繰り返しラミィと訪れたこの場所はそれ以上に僕に新鮮な呼吸を与えた。いつもなら温もりさえ感じさせる木々や葉の緑は闇に溶けて氷の刃を剥き出しにしている。近道だろうと、思う方向へむやみやたらに走った。変わらず強い灯りを湛える月だけが僕の味方だった。そうして僕は、記憶をひらき草を分け、その場所まで辿り着いた。
 小さな木造の家は付近の茂みから少し離れるように建てられていた。みつからずに近づくことに少し不安を覚えたが、既に灯りを落とした室内からはこちらも照らされることは無いだろう。窓の隙間からは、真っ白なカーテンがさらさらと身を滑らせている。
 僕はそうっと立ち上がり、体を低くしたままその窓辺に近づいた。カーテンの刺繍がはっきりと見えるほど近づいても、人の声も、それらしい物音も聞こえない。窓の下まできた僕は、頭を低くして座り込んだ。壁に背をもたれさせ、音も無く溜息をつくと白い息が口元から零れて消えた。…どうすればいいだろう。部屋の中に入るわけにはいかない。ただせめて、僕が傍にいることを彼女に伝えたかった。それができるなら、もし僕が彼女を見つけられなくともかまわないのだ。けれどこの窓を覗き込んだ途端、僕が客の方にみつかってしまったらどうしようもない。
 月の下でひどく淡く輝く自分の髪が恨めしくも思えた。ここまできておきながら、どうしようもなくなってしまった。途方にくれそうになる頭を壁にもたれさせ、窓からあふれでたカーテンの波に邪魔されながら月明かりを見上げていたそのとき。
 きらきらと、糸のようなひかりが僕の視界に揺らめいた。白いカーテンを彩る刺繍糸が、ほどけて風になびいているのだと思った。けれどそれが、あまりに美しく僕の額の髪の輝きと重なって、僕は息を呑んだ。
「ラミィ」
 思わず口にした彼女の名は、囁きを落とした僕自身を一瞬ひやりとさせる。けれどそんな焦りすら、彼女の存在を感じた僕を止めはしなかった。窓の下に身をすくませたまま金の糸を見上げる僕は、動悸の起こりそうな胸を収めながら壁に耳を押し付ける。すると、ゆっくりと。いくらかの呼吸を置いたあと、ほんとうに小さく、コツ、と壁越しに音が聞こえた。
 ああ、神様。
「ラミィ」
 今度の呼びかけは、口の中だけに響いて消えた。喜びと安堵の溜息が、同時に漏れる。僕の目から彼女を隠す木の壁を、僕はやさしく撫でた。
 頭上にちらちらと揺れるカーテンの方を再び見上げると、もう彼女の髪は見えなかった。きっと僕と同じようにこの窓の下に身をよせているのだろう。ほんとうなら覗き込んでラミィに僕のことをみせてあげたかったけれど、さすがにそれはできそうにない。それでも彼女が今この向こう側にいて、僕に応えているのなら、せめて、手を伸ばすくらいは。
 僕は純白の揺らぎをこの上なくいとおしく思いながら、窓辺にそっと手を伸ばした。小さなからだをその下に隠したまま、もっと小さな手を、ゆっくりと辿らせる。カーテンのやわらかな感触が、僕の肘のあたりをやさしくくすぐる。白いレースの合間から現れた僕の手は、ラミィにはどんなふうにみえたろう。
 窓の隙間からのばした僕の右手を彼女の両の手がとらえる。間違いようもないこの感触。何度となく重ねてきたラミィの手。彼女はその僕の手に、唇や目蓋や額を押し付け、僕は彼女の顔や細い髪を指で撫でていった。彼女が泣いていたのは容易に知れた。短く途切れる呼吸に震えているのが伝わってくる。ふたりは沈黙のうちに互いの幼さをふれあわせた。出会ってから一日たりとも離れたことのなかった僕らにとって、この再会は故郷に帰ってきたような懐かしさにあふれていた。なにひとつ自分の思い通りの道なんて、歩んでこなかったけど、これだけはわかる。僕らはこの手を離してはいけなかった。
「ラミィ…ずっといっしょにいよう。僕らには帰る場所があるんだ。命のある限り、きっとお互いの元へ戻れるように」
 僕は彼女にとらえられていたその右手で、やわらかな金色の長い髪をたどたどしく、やさしくすいた。ラミィは僕の手に指を交えさせ、僕の言葉を享受していく。いっしょにいようラミィ。ふたりの幸せを、分かち合って生きていこう。
 僕はゆっくりと天空を見上げ、細く光る月の下で魔法の言葉を奏でた。名前もわからない神さまを、僕らの幸せのために小鳥のように呼びたてた。伝えるのは僕の名と彼女の名。そして願いあげる奇蹟。夜風がふわりと僕の身を包む。僕はラミィの手の中で眠る右手を、幸せに身悶えるようにくゆらせた。自身の知らない幸福を神に願い、神の与える幸福を望みそのものとして信じ、また受け入れていく。僕の手の中の彼女はとても冷たく、頼りなかった。けれど小さく、かよわく、僕の守護を心から甘んじて受け眠るようにその身を預ける彼女の指先は、確かに僕の心を温めてくれる。僕は雪崩れ込んでくるそれを理解した。これは僕らがたわむれに繰り返した御伽噺やおまじないと同じに、確かに僕らの小さな幸せを分け合うことを、許してくれるしるしだと。たとえどんなに些細なものだったとしても、僕らは、それが互いの内に宿っていたものなら、なんの抵抗もなく分かち合うことができるんだと。
 そしてゆるやかに伝わる不可思議な感触。水に抱かれるようななめらかさが二人を満たしていくのがわかる。僕らの中でそれは溶け合い、互いのものをどちらともつかない唯一のものへと還らせていく。二人の指先はその混じり合うものの中心にあって、僕らの命を必死につなぎ合わせるように重ねられていた。還元されていく体のすべての感覚が、せつないほど鋭敏になる。
 それに恐怖を感じたのだろうか。彼女の手が強張るように僕をきつく握り締めた。ずっと目を閉じていた僕は、顔をあげてその手のある方に瞳を向けた。けれど彼女の姿はここからは見えない。僕は安心を促すように、自分と同じその小さな手をしっかりと握り返した。今にも泣き出しそうに震えていた指先は、僕の手に強くつつまれると再び眠るように沈黙した。
 僕はそれを感じ、安心してまた両のまぶたをおとした。最後にはひとつになった命の充足感と、自分と彼女の体のたよりなさが残る。僕は肺に溜めていた息を吐き出した。くぐもった白が夜の空に流れていく。
 それから僕はゆっくりと、冷たい夜風に冷え切った彼女の手を自分の手から開放した。
「ラミィ」
 呼びかけた彼女の名前。僕の唇は不思議な響きをもって僕の意思に応えた。彼女の名前の、なんてやさしい旋律。
「また…会いに来るよ」
 返事を確かめる間もなく僕は立ち上がった。家の中から見えないように、身を潜ませて緑の闇をたたえる草むらの中へまぎれた。
 そこをぬけると、僕は晴ればれとした気持ちで薄い月明かりの中、丘のおりかさなる草原を駆けていった。胸の奥で、はちきれそうなほどの喜びが僕の体を熱くしていた。ラミィが幸せになれれば。ペルヴァンシの面影が心の隅に消えきらない影を落としていたことが、僕にラミィの幸せを願わせた。踊るような気持ちで駆ける僕の後ろには、さっきまで彼女と一緒にいたあの建物が、広大な風景の中にとりのこされるようにぽつんとたっている。
 僕の背の向こうにある、彼女のあの小さく幼い手。たった今、僕の手を強くとらえていたつたない手指。僕とそっくりの細い髪。笑うときいつも細めていたやさしい目。言葉少なに互いを慈しんだ唇。共に同じ道を歩んできた足。戯れに取り合った両の手。あれほど僕の体を暖めた彼女のすべて。
 けれど彼女のものは今、ひとつのこらず夜風と共にあった。冷たい指。冷たい唇。冷たい頬。この風にまぎれて消えてゆく彼女の温度。
 あの冷たい手をいつもつないでいた。僕の手と重なってだんだんと二人の温度が近づいていくのを感じさせてくれた。


 ああ、誰が僕らの物語を理解してくれるだろう。僕は彼女の最期に気づかなかった。突然過ぎて、幸せを呼ぶ僕らにはあまりに急過ぎて、想像すらしなかった。僕が今この瞬間に起きた、君の終わりの出来事を知ったのは、ずっと後のことなんだ。
 離別は沈黙に惑わされて、まるで君が何処かで生きていることを僕の中で見事に演じつづけた。死はたびたび、僕らの与かり知らぬところで生を模倣する。だって、想像なんて、絶対にしやしない。僕が君の死を、思う?なんの合図もなしに。さよならもなしに。痛みのために洩れる嗚咽すら無しに。まして驚くほどに力強い、君のあの手のひらを感じて。君は生きていた。僕の隣で、僕の命の傍で、息を潜めるように、けれどはっきりとその音を響かせて。
 彼女の体を中途半端に支える剣は、切先を床に、刃の半ばには君を横たえ、その体を空に投げ出すような形を保っていた。すでに力を失った両手は、まだ窓辺に、僕の手をつかんでいたときとかわらず、軽く握られた形のまま。糸の切れた人形のような四肢から、赤い水が流れ落ちる。規則的に落下する水滴が、この広い草原の中に、唯一君の命の音を響かせる。
 夜の冷気が自分らの同族となった彼女の体をやさしくつつむ。僕はこときれた彼女に背を向けて家路へと走っていく。
 本当は魔法もおまじないも、神様なんてものがくれる幸福も、なにも信じちゃいなかった。ただ僕は、僕らの幸せを信じて疑わなかった。心から願っていたから、きっとそれは叶うと信じていた。

 小さい頃からいっしょだったね。僕らはきっと、双子のように互いを愛していた。ひとつになる僕らの命は、君に暖かい光を、僕の熱を伝えてくれるんだよ。僕の大切なラミィ、ふたりはひとしく幸せを手に入れるんだ。
 さっき僕を握り締めた君の手が、たとえ君の最後の力だったとしても。


 ラミィ
 僕の命を分けたきょうだい







to be continued...